謀反
ぼう‐へん【謀▽反】
む‐へん【謀▽反】
む‐ほん【謀反/謀×叛】
謀反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/14 21:00 UTC 版)
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謀反(むほん、むへん、ぼうへん)は、国家・君主・主君・時の為政者にそむくことである[1]。謀叛とも表記するが、厳密には後述のように表記や読み方、また時代によって差異がある。ただし、「むはん」「ぼうはん」はよくある読み間違いである。特に武力・軍事力を動員して反乱を起こすことを指すことが多いが、少人数で君主・主君を暗殺する行為を謀反ということもある。ただし、近代の事件を指して謀反の語を使うことはまれであり、基本的に前近代の事件を指す言葉である。
律における謀反
謀反の意味
唐律において謀反は十悪の第一、養老律でも八虐の第一である[注釈 1] 。律において謀とは計画にとどまり実行に着手していない予備罪をいう。反については謀だけで極刑となり実行してもしなくても刑に違いがないので、条文では謀反の規定で兼ねる。反は皇帝・天皇の殺傷、叛は本朝(本国)を裏切って外国を利することで、謀反と謀叛は別の罪である。後に謀反・謀叛と同義になる大逆も、律では陵墓や宮闕の損壊という別の罪であった。
唐律の条文で謀反とは「社稷を危うくせんと謀ること」、養老律では「国家を危うくせんと謀ること」である。社稷・国家とは、尊号を直接書くことをはばかったものだと律の疏(注釈)にあるので、字義通りではなく皇帝・天皇のことである。はばからず直接的に書けば、反は皇帝・天皇に対する殺人と傷害、謀反はその計画である。しかし後述するように、実際の適用では、臣下の間での実力による政権奪取の試みや陰謀も謀反に含められたので、字義通りの解釈が誤りと言えない面がある。
刑
唐律でも養老律でも、謀反に加わった者は、主犯・従犯を問わずみな斬とされた。謀反しようとしたが人々を動かす能力・威力が欠けていた者は、本人はやはり斬だが、縁座が狭く軽くなった。呪術で害そうとするのは、謀反ではなく妖書妖言を造り用いる罪で、流刑以下となる。
縁座(連座)に関する規定は、唐と日本で異なり、唐律のほうが範囲が広く厳しい。唐律では父と年16以上の子(息子)は絞となり、執行方法に違いがあるだけで斬と同じく死刑である。年15以下の子、母女(母と娘)、妻妾、子の妻妾、祖孫(祖父母と孫)、兄弟、部曲(隷属民)、資財、田宅が没官になった。没官は官への没収で、人について言えば官戸にすることである。伯叔父、兄弟の子は流三千里(三千里の流刑)になった。能力・威力を欠いていた者の父子、母女、妻妾は流三千里になった。
縁座の免除については、男で年80以上または篤疾、女で年60以上と廃疾の者は没官を免れた。他家に嫁にいった者、出養(他家に養子に出た者)、入道(道士、僧侶などの出家者)、婚約者は連座を免れた。嫁と養子は実家に出た謀反人からは連座しないが、入った先の家に謀反人が出ればそこで連座する。
日本では縁座の死刑はなく、父子(父と息子)、家人(唐律の部曲にあたる隷属民)、資財、田宅が没官となった。祖孫・兄弟は遠流である。年80以上と篤疾は没官を免れた。婦人、出養、入道には連座しなかった。能力がない謀反では、父子が遠流になるだけで、官戸にはされなかった。僧侶、婦人、官戸、陵戸、家人、公奴婢、私奴婢が犯人の場合、本人が刑されるだけで、縁座はなかった。
日本における「謀反」と「謀叛」
古代の謀反・謀叛
古代日本の大宝律令・養老律令の律の規程では、「謀反」はぼうへん・むへんと発音して、「謀叛」とは区別されていた。「謀反」とは国家(政権)の転覆や天皇の殺害を企てる罪のことであり、あらゆる罪の中でも最も重く斬刑などに処せられる八虐の筆頭であった。一方「謀叛」はいわゆる天皇に危害を加えるなどの大逆行為を含まない国家(政権)の転覆及び敵国への内通・亡命などが対象となり、こちらも八虐の第三とされていた。7~8世紀に政争の末、謀反・謀叛の罪によって殺害された貴族は少なくない。
日本では律の規定と実際の刑罰に乖離があり、律令制全盛期でも、廷臣の殺害による政権奪取や、蝦夷や隼人の反乱が反・謀反とされていた。当時から謀反・謀叛・大逆の語には混用があり、平安時代後期になると謀叛と謀反はともに「むほん」と読む同義語になった。[2]
奈良時代と平安時代初めに、謀反を起こした(とされた)人はほとんど死刑になったが、その対象者と縁座の範囲・量刑は政治的判断で左右された。斬と絞の区別は無視され、主犯だけが死刑になり、縁座者への刑は律の規定より軽くなる傾向があった。
平安時代頃から、中央貴族に対する死刑は好まれなくなり、死刑に繋がる重い刑罰である謀反・謀叛はほとんど適用されなくなる。また、陸続きの隣国が存在せず、また天皇を君主とした国家体制が続いてきたこともあり、隣国との通謀や亡命の可能性が低く、天皇を抜きとした政権転覆も考えにくかったためにこの頃より謀叛という語を謀反と同じ意味で用いられるようになった。
中世以降の謀反・謀叛
武士が台頭してくると、地方で武士の間の抗争が巻き起こり、その中で力を持ちすぎた者が中央政府である朝廷に謀反人と見なされ、中央から派遣された軍隊(実際には、これも武士たちである)によって討たれる事件が起こるようになった。
鎌倉時代に入ると、武士の間の主従関係が重要になり、ある武士と主君の関係を結んでいる家臣の武士が、主君の武士に反抗することが起こり、これを謀反と呼ぶ。戦国時代には数多くの謀反が起こって家臣が主君を追って自ら大名になる事件、「下克上」が起こるようになった。戦国時代の動乱を最終的に収めた江戸幕府は、このような風潮を改め、家臣の主君への従順を教えるため朱子学の道徳を武士に学ばせる。
明治時代の西南戦争や幸徳事件(大逆事件)、1936年の二・二六事件も、当時の資料には謀反の言葉が見うけられる。しかし現在では、近代的な用語としてクーデターや反乱などの言葉が使われ、明治以降の武力反抗事件に謀反という言葉は用いられなくなっている。
天皇御謀叛
鎌倉時代末期、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を計画した正中の変(1324年)・元弘の変(1332年)を幕府側は「天皇御謀叛」(あるいは「当今御謀叛」)と呼び、当時の武家もこれに倣った[3]。
平安時代後期以後、朝廷は社会秩序を維持するための警察・軍事的な裏付け(「検断権」)を次第に失って、武士たちによってその維持が図られてきた。平氏政権は仁安2年5月10日に後白河院院宣及び六条天皇宣旨によって平重盛(清盛は既に出家)に諸国の軍事警察権が与えられ、治承5年(1181年)には畿内近国に惣官職が設置された。
やがて、源頼朝によって幕府が開かれて全国の武士団を統率するようになると、鎌倉幕府が朝廷より社会秩序を維持する検断権が委ねられるようになる(「文治勅許」・「建久新制」)。だが、平氏政権・鎌倉幕府初期の段階では検断権そのものは朝廷・院が有しており、平氏政権・鎌倉幕府はその下で権限を行使をする存在とされ、また朝廷・院が独自に警察力・軍事力を行使することもあった。承久の乱の際に鎌倉幕府が設置した諸国の守護・地頭に対して北条義時追捕の弁官下文(承久3年5月15日)が出されたのも、朝廷・院が検断権を有し幕府はそれを委ねられた存在であるという考えによる。
だが、承久の乱で鎌倉幕府が勝利すると、幕府が日本全国の警察力・軍事力を掌握して、朝廷が持っていた検断権は形骸化して、公家領や寺社領に対する訴訟の権限は有していたものの、警察・軍事に関しては幕府の行動に大義名分を与える役割に限定されるようになる。つまり、この時代には唯一の検断権の行使機関であった鎌倉幕府に対する反抗は即ち社会秩序全体を危うくする行為と見なされていた。つまり後醍醐天皇の行為は鎌倉幕府が社会秩序を維持する国家形態及び政権自体に対する転覆の企て、即ち「謀叛」であると見なされたのである[3]。公家が残した『増鏡』では「謀叛」とは記されてはいないが「天皇が世を乱す」という認識がなされていた[3]。
なお、歴代にも崇徳天皇、後鳥羽天皇など、譲位後に武力をもって時の政権を排除しようとした事はあるが、これらを「天皇御謀叛」と称する事は一般的ではない。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注 編『律令』岩波書店〈日本思想大系 新装版〉、1994年。ISBN 978-4-000-03751-8。
- 新井勉 (2012-06-30). “古代日本の謀反・謀叛について:大逆罪・内乱罪研究の前提として”. 日本法學 (日本大学) 78 (1). NAID 110009426636.
- 新井勉 (2012-09-25). “中世日本の謀叛について:大逆罪・内乱罪研究の前提として”. 日本法學 (日本大学) 78 (2). NAID 110009470095.
- 新井勉 (2013-01-20). “近世日本の叛逆について:大逆罪・内乱罪研究の前提として”. 政経研究 (日本大学) 49 (3). NAID 110009544961.
- 新井勉 (2013-03-05). “明治前期の叛逆について:大逆罪・内乱罪研究の前提として”. 政経研究 (日本大学) 49 (4). NAID 110009559532.
関連項目
謀反(むへん)
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謀反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 10:04 UTC 版)
弘前藩の官撰史書である『津軽一統志』によると、元亀2年(1571年)5月5日、自分の支城の堀越城から出撃、2キロメートルほど離れている石川城を工事を装いながら、突如攻略し、南部宗家である三戸南部家当主・南部晴政の叔父にあたる石川高信を自害に追い込んだ(生き延びたとする説もある)。南部晴政は、この頃には石川高信の実子でかつ晴政の長女の婿となり養嗣子であった石川信直と争っており、三戸南部家と石川家の内部抗争をいいことに為信は周りの豪族を次々に攻め始める。晴政が対立する石川家を弱体化させるため石川家の津軽地方を掠め取るよう、為信を密に唆したとの説もある。天正3年(1575年)大光寺城の城代滝本重行を攻め、敗退するも、翌年(1576年)攻め落とす。天正6年(1578年)7月、予め無頼の徒輩を潜入させておき放火、撹乱で浪岡城を落城させ浪岡御所・北畠顕村(北畠親房の後裔)を自害させる。しかし奥州の貴種であった浪岡北畠氏を滅ぼした影響で安東氏との関係も悪化。安東・南部・浪岡氏勢力との戦いである六羽川合戦が起きる。 それに対し南部氏側史料によると、石川高信が津軽に入ったのを元亀3年(1572年)として、天正9年(1581年)に(為信に攻め殺されておらず)病死としている。為信は、高信から津軽郡代を継いだ次男(石川信直の弟)の石川政信に重臣として仕え、主君に取りいるために自分の実妹・久を政信の愛妾に差し出していた。天正10年(1582年)、同役の浅瀬石隠岐が死ぬや政信に、もう一人の同役の大光寺光愛を讒言し出羽国に追放させた。そして天正18年(1590年)3月、政信と於久をともども宴席に招待し油断させて毒殺し、その居城だった浪岡城を急襲占拠して津軽地方を押領したとある。しかし、これに関しては@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}南部氏側の作意を示す証拠[要出典]が存在する。民間記録『永禄日記』を初め、『南部晴政書状』や『南慶儀書状』も元亀2年の為信の石川城攻略を物語っている。そして天正年間には既に津軽地方は為信が完全に掌握[要出典]しており、石川政信が津軽に入れる状況ではなかった。さらに南部氏側の主張が事実なら天正18年に挙兵した為信は、同年の小田原征伐での豊臣秀吉の元へ参陣していないことになる。現在では南部家は豪族の連合体の粋を脱しておらず、「郡代」を置けるほど三戸南部氏の勢力や統制は強固なものではなかったと考えられている(そもそも主従関係ではなかった)。 ちなみに津軽氏側資料では、石川政信はその父・高信が死んだ翌元亀3年に為信に討たれているが毒殺との記載はなく、また津軽氏系譜に為信の妹は載っていない。
※この「謀反」の解説は、「津軽為信」の解説の一部です。
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謀反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 00:12 UTC 版)
弘治2年(1556年)、信広は美濃稲葉山城の斎藤義龍と組んで謀反を画策する。この頃、信長は美濃からの兵が来れば自ら清洲より出陣し、後詰めに信広が清洲城に入り、留守居役の佐脇藤右衛門が信広の応対に出てくるのが常となっていた。信広はこれを利用して、清洲城の北に義龍が布陣して撃退するべく信長が出陣した時にいつも通り後詰めとして清洲入りし、応対に出てくるであろう佐脇を殺害して清洲城を乗っ取り、成功すれば狼煙を上げて清洲城の信広と義龍とで信長を挟撃するという作戦を立てる。 しかしこの計画は事前に信長に漏れ、清洲城から義龍を迎え撃つために出撃した際に佐脇に決して城を出ないことと、町人に惣構えで城戸をさし堅め信長帰陣までいかなる人間も入れぬようにと厳命していた。この時に限って佐脇に入城を頑なに拒まれ、更に警戒体制の城下の様子を見て信広は謀叛の失敗を悟って慌てて兵を返し、いつまでも狼煙が上がらぬことで、義龍も信広が清洲城の乗っ取りに失敗したことを察し、戦わず美濃へと引き上げた。それから信広は叛意を露にして信長と敵対し、小規模な戦闘をたびたび起こしたがいずれも退けられ、ほどなくして降伏した。この時、信長は信広を赦免している。
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謀反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 19:51 UTC 版)
詳細は「大寧寺の変」を参照 天文19年(1550年)2月に大友二階崩れの変により、大友義鎮が大友氏の家督となり、隆房は、主君の大内義隆を追い落として義鎮弟の大友晴英を大内氏の家督とすることを決意し、義鎮に了解をとりつけた。 天文20年(1551年)1月、武任は自らも隆房との対立による責任を義隆に追及されることを恐れて「相良武任申状」を義隆に差し出し、この書状で「陶隆房と内藤興盛が謀反を企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と讒訴する。これを契機として文治派を擁護する義隆と武断派の隆房の対立は決定的なものとなり、8月10日(9月10日)には身の危険を感じた武任が周防から出奔するに至り、両者の仲は破局に至った。 8月28日(9月28日)、隆房は挙兵して山口を攻撃し、9月1日(9月30日)には長門大寧寺において義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆の嫡男の義尊も殺害した(義尊については、殺さずに新しい当主に擁立するつもりだったともいう説もある。)。そして野上房忠に命じて筑前国を攻め、武任や杉興運らも殺害したのである。さらに謀反が終わった後には重矩も殺害した。義尊の弟で、義隆の次男である問田亀鶴丸は母方の祖父が内藤興盛であることもあり助命している。
※この「謀反」の解説は、「陶晴賢」の解説の一部です。
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