謀反に至るまで
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天文14年(1545年)5月になると険悪関係は深刻度を増し、武任は剃髪をして義隆の側を去り、肥後の本家を頼って下向した。隆房らの巻き返しを受けての武任ら文治派の失脚の影響と言われる。しかし、天文17年(1548年)には義隆の要請を受け大内家に再出仕した。この頃、豊前守護代である重臣の杉重矩が不穏な動きをする隆房について義隆に進言したが、聞き入れられなかったとされる(相良武任申状)。 天文18年(1549年)2〜5月に、大内氏と毛利氏の同盟を強化するための義隆の計らいで、元就が息子たちを連れて山口を訪れて義隆に謁見する。しかし、毛利に近づくための陶の招きとも言われており(相良武任申状)、隆房の嫡男・陶長房を通じて密書のやりとりがあったとも言われる。また、この長期の滞在の間に隆房と吉川元春は義兄弟の契りを結んだ。 天文19年(1550年)になると、武任と隆房との対立が決定的となり、武任暗殺まで謀られるに至るが、事前に察知した武任は義隆に密告して難を逃れた。しかし、隆房が謀反を起こすという伝聞が流れるまでになり、義隆の側近である冷泉隆豊が義隆に隆房の誅殺を進言するほどだった。武任は美貌で評判だった自分の娘を隆房の子・長房に嫁がせることで和睦を図ろうとしたが、隆房が家柄の違いを理由に縁談を拒否したことから融和案は決裂した。 8月24日付けで隆房は、毛利元就・隆元宛と吉川元春宛に2通の密書を書き送り、「杉や内藤と相談し、義隆を廃し、義尊に跡目を継がせたい」として協力を求めているのが、隆房が謀反を示す最初の史料とされる(吉川家文書)。また、元就を通じて隆房の意向は、天野隆綱など他の安芸国人にも伝えられており、隆房への協力の見返りに所領を与えることが約束されていた(天野毛利家文書)。 9月15日に仁壁神社・今八幡宮で行われた例祭での参詣を義隆は急遽欠席し、右田隆次を代参させた。これは「隆房が、義隆・武任を幽閉する」という噂で、義隆側が警戒したものと考えられている。翌16日に義隆は隆房を呼び出して詰問するが、隆房は無実を主張した。他方、武任は同日(16日)に再び大内家から出奔し、石見の吉見正頼の元に逃げていた。 11月下旬より隆房は、病気と称して居城若山城(周南市)に籠もり、年が明けた2月の修二月会大頭役の勤めも果たさなかった(隆房が同役を勤めることは前年から決まっていた)。この時、義隆も隆房らの謀反を恐れて自ら甲冑を着けて居館に立て籠もり、さらに隆房に詰問使を送るなどしたことから、義隆と隆房の仲は最悪の事態を迎えた。 天文20年(1551年)1月、出奔していた武任が筑前守護代の杉興運によって身柄を確保された。この一連の騒動で義隆から責任を追及されることを恐れた武任は、相良武任申状において弁明し、「陶隆房に謀反の疑いがあると主張したのは(普段より隆房と不仲であった)杉重矩である。しかし、その注進が受け入れられなかった重矩は、(隆房の怒りを買わないように保身のため)讒訴を自分(武任)がしたとすり替えて隆房に近づき、対立していたはずの隆房に寝返った。両名は内藤興盛と共に何か画策している」という根も葉もない讒訴を行なった。つまり、隆房が謀反を起こそうとしており、その対立が生じた責任を杉重矩1人に押し付けて、自らには責任が無いと申し立てたのである。どちらかというと義隆擁護派であった重矩が隆房の謀反に協力するようになったのは、隆房を疑わない義隆に失望したとも、相良武任申状で讒訴されたことを知ったからともされる。 4月、義隆は武任を周防に連れ戻して出仕させた。それに対抗するように隆房らは翌5月、大友義鎮の異母弟・大友晴英(義隆の姉の子=義隆の甥)を大内新当主として擁立する旨に協力を願う密使を大友氏に送る。北九州における大内領の利権を割譲する代わりに、晴英を貰い受けることで、晴英の快諾と義鎮の許諾を得ている。
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