謀反に至るまでとは? わかりやすく解説

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謀反に至るまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 15:08 UTC 版)

大寧寺の変」の記事における「謀反に至るまで」の解説

天文14年1545年5月になると険悪関係は深刻度増し、武任は剃髪をして義隆の側を去り肥後本家頼って下向した。隆房らの巻き返し受けての武任ら文治派失脚影響と言われる。しかし、天文17年1548年)には義隆の要請を受け大内家再出仕した。この頃豊前守護代である重臣杉重矩不穏な動きをする隆房について義隆に進言したが、聞き入れられなかったとされる相良武任申状)。 天文18年1549年)2〜5月に、大内氏毛利氏同盟強化するための義隆の計らいで、元就息子たち連れて山口訪れて義隆に謁見する。しかし、毛利近づくための陶の招きとも言われており(相良武任申状)、隆房の嫡男陶長房通じて密書やりとりがあったとも言われるまた、この長期滞在の間に隆房と吉川元春義兄弟契り結んだ天文19年1550年)になると、武任と隆房との対立決定的となり、武任暗殺まで謀られるに至るが、事前に察知した武任は義隆に密告して難を逃れた。しかし、隆房が謀反起こすという伝聞流れるまでになり、義隆の側近である冷泉隆豊が義隆に隆房の誅殺進言するほどだった。武任は美貌評判だった自分の娘を隆房の子・長房に嫁がせることで和睦図ろうとしたが、隆房が家柄違い理由縁談拒否したことから融和案は決裂した8月24日付けで隆房は、毛利元就隆元宛と吉川元春宛に2通の密書書き送り、「内藤相談し、義隆を廃し義尊跡目を継がせたい」として協力求めているのが、隆房が謀反を示す最初史料とされる吉川家文書)。また、元就通じて隆房の意向は、天野隆綱など他の安芸国人にも伝えられており、隆房への協力見返り所領与えることが約束されていた(天野毛利家文書)。 9月15日仁壁神社今八幡宮行われた例祭での参詣を義隆は急遽欠席し右田隆次代参させた。これは「隆房が、義隆・武任を幽閉する」という噂で、義隆側が警戒したものと考えられている。翌16日に義隆は隆房を呼び出して詰問するが、隆房は無実主張した他方、武任は同日16日)に再び大内家から出奔し石見吉見正頼元に逃げていた。 11月下旬より隆房は、病気称して居城若山城周南市)に籠もり、年が明けた2月修二月会大頭役の勤めも果たさなかった(隆房が同役勤めることは前年から決まっていた)。この時、義隆も隆房らの謀反恐れて自ら甲冑着け居館立て籠もり、さらに隆房に詰問使を送るなどしたことから、義隆と隆房の仲は最悪事態迎えた天文20年1551年1月出奔していた武任が筑前守護代の杉興運によって身柄確保された。この一連の騒動で義隆から責任追及されることを恐れた武任は、相良武任申状において弁明し、「陶隆房謀反疑いがあると主張したのは(普段より隆房と不仲であった杉重矩である。しかし、その注進受け入れられなかった重矩は、(隆房の怒り買わないように保身のため)讒訴自分(武任)がしたとすり替えて隆房に近づき対立していたはずの隆房に寝返った両名内藤興盛と共に何か画策している」という根も葉もない讒訴行なった。つまり、隆房が謀反起こそうとしており、その対立生じた責任杉重矩1人押し付けて、自らには責任が無いと申し立てたのであるどちらかというと義隆擁護派であった重矩が隆房の謀反協力するようになったのは、隆房を疑わない義隆に失望したとも、相良武任申状讒訴されたことを知ったかともされる4月、義隆は武任を周防に連れ戻して出仕させた。それに対抗するように隆房らは翌5月大友義鎮異母弟大友晴英(義隆の姉の子=義隆の甥)を大内当主として擁立する旨に協力を願う密使大友氏に送る。北九州における大内領の利権割譲する代わりに、晴英を貰い受けることで、晴英の快諾と義鎮の許諾得ている。

※この「謀反に至るまで」の解説は、「大寧寺の変」の解説の一部です。
「謀反に至るまで」を含む「大寧寺の変」の記事については、「大寧寺の変」の概要を参照ください。

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