謀反の真偽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 09:44 UTC 版)
高貞謀反の真偽について、鈴木登美恵は、高貞が実際に室町幕府から南朝に寝返った可能性は十分にあるのではないか、と主張している。 一つ目の理由として、塩冶高貞は南朝と深い縁戚関係にあった可能性があると推測できることが挙げられる。軍記物『太平記』では、高貞の妻は後醍醐天皇外戚早田宮の娘でもともと後醍醐の後宮に入っていたと描かれているが、鈴木は、この点については『太平記』の全くの創作とは言い切れず、『尊卑分脈』『阿蘇文書』などから一定の歴史的傍証がある、と述べている。もしこの説が正しいとすれば、塩冶高貞は、早田宮真覚(後嵯峨天皇の孫)の実子で後醍醐の猶子にして南朝公卿である左中将源宗治の義兄(もしくは義弟)に当たることになる。縁故上の近さだけではなく、当時、源宗治は幼い懐良親王を補佐して南朝の九州方面軍の将帥として指揮を執っており(『阿蘇文書』)、塩冶高貞の治める出雲(現在の島根県東部)とは地理的にも近かった。 二つ目の理由として、興国2年/暦応4年(1341年)当時は、全国的に南朝が盛り返していた時期であり、北陸地方・四国の伊予国・東国の常陸国(北畠親房らが参戦)・山陰の石見国(日野邦光らが参戦)などで南朝の活動目覚ましく、さらに高貞のお膝元である出雲でも南朝を支持する一派が増えていたことも挙げられる。 鈴木は、以上の二点を合わせると、高貞が妻を介して当時勢いのあった南朝方へ離反したという経緯が考えられるという。 亀田俊和もまた、鈴木とほぼ同様の論旨を述べ、高貞謀反が直義の言いがかりではなく事実であった可能性は高いのではないか、としている。
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