謀反の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:34 UTC 版)
田中義成は謀反の原因は信長の部下に対する苛酷な態度にあったのではないかとしている。『陰徳記』[要文献特定詳細情報]によると石山合戦で信長と交戦中の石山本願寺へ毛利勢と通じた村重が兵糧を密かに搬入したとの噂が流れたり、信長の命により石山本願寺に和睦の交渉役として出向いた時に、城内の困窮ぶりを目のあたりにし、交渉を有利にすすめるために単独で米100石を提供したという説や、『武功夜話』[要文献特定詳細情報]では神吉城の攻城戦で城内の内通者であった神吉貞光(藤太夫)は村重と旧知の間であったため、落城後羽柴秀吉は貞光の助命を許した。しかし、貞光は直後に別所長治のもとに走って羽柴軍と対することになる。ためらいもなく別所のもとに走ったことから、貞光と村重は通じており、村重も疑われることになったという説を記している。 一方、天野忠幸は摂津国内の状況に着目し、織田政権の下での支配強化の動きに反発する摂津の国人や百姓の間で信長への反抗の動きが急激に高まり、彼らによる下からの突き上げを受けた村重は彼らに排除されるよりも先に彼らに呼応する形で信長との決別を選択したとする説を唱えている。また天野はこれまで石山本願寺の地元でありながら石山戦争に対して中立の態度を取っていた摂津西部の一向門徒が村重の謀反を機に立ち上がり、終盤(花隈城の戦い段階)では本願寺と信長の停戦に反対する教如(顕如の長男)を支持する彼らが信長との戦いの主力になっていったとしている。 このように、様々な説があり何が原因で謀反に及んだのか、真相はよく解っていない。
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