花隈城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 14:48 UTC 版)
有岡城の戦いで有岡城を失い尼崎城も追われ、摂津最後の城となった花隈城に逃げ込んだ荒木村重の最後の砦となった。 当時の城主は『常山記談』によると「荒木元清」との記載があるが、『中川文書』によると「大河原具雅」が城主で、その部下が荒木元清との記載もある。 荒木軍を追撃してきた池田恒興と嫡男の元助は諏訪山に、次男の輝政は生田神社の森に、紀伊雑賀衆の援軍は大倉山に花隈城を囲むようそれぞれ陣取った。 戦端は天正8年(1580年)3月2日、荒木軍が花隈城より出撃して生田神社の森の池田輝政軍に攻めかかった。同時に周りの池田軍が花隈城へ攻撃、総大将の恒興自身も自ら5,6名程度を討ち取るなど乱戦になったが、結局勝敗はつかず両軍兵をひいた。 次の戦闘は同年7月2日、周りの草などで偽装して近づいてきた(偵察兵ではないかと思われる)池田輝政軍を花隈城兵が追い散らしたところに池田元助軍が加わり、更に池田恒興軍も加勢し、大手門周辺で戦闘になった。また別動隊が搦手より城内に侵入し、大手門を守る守備隊を背後から襲い、これに後詰の軍として待機していた紀州雑賀勢の援軍も加わり、花隈城を開城させることに成功した。この後村重は毛利氏の元へ亡命し、花隈城は廃城になる。 なお、尼崎城・花隈城の攻防に関しては荒木村重による信長への反逆とは別に、天正8年(1580年)閏3月に勅命によって織田信長と石山本願寺の顕如が和睦したのに対し、和睦と石山本願寺からの退去に反対して抵抗を続けようとした顕如の長男・教如を支持する一向一揆が荒木方に合流して信長への抗戦を続けようとしたとする説もある。これは、信長と顕如の和睦条件に石山本願寺・尼崎城・花隈城の開城が含まれていること、石山合戦の間も必ずしも本願寺に協力的とは言えなかった摂津西部の本願寺の門徒が村重の挙兵を機に一向一揆を起こして一部が籠城側に合流していることがあげられる。
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