池田元助とは? わかりやすく解説

池田元助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/07 03:12 UTC 版)

 
池田元助
池田之助(元助)像[注釈 1]
(岐阜県揖斐郡本郷村龍徳寺所蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄2年(1559年[2]または7年(1564年[3]
死没 天正12年4月9日1584年5月18日
改名 勝九郎(幼名)、池田元助
別名 之助、通称:庄九郎、紀伊守
戒名 正宗院顕功永節禅定門[4]
墓所 龍徳寺岐阜県揖斐郡池田町本郷)
主君 織田信長信雄羽柴秀吉
氏族 池田氏
父母 父:池田恒興、母:善応院荒尾善次の娘)
兄弟 元助輝政長吉長政、安養院(森長可室、後に中村一氏室)、若政所豊臣秀次正室)、天球院(山崎家盛正室、後に離縁)、慶雲院(浅野幸長正室)、女(織田勝長正室)[5]
異父姉:七条織田信時の娘、飯尾敏成正室、後に下間頼龍正室)
正室:斎藤義龍の娘[4][6]/ 伊勢貞良(伊勢兵庫某[2])の娘[注釈 2]
継室:塩川長満の娘[2]
由之元信[注釈 3]
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池田 元助(いけだ もとすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将池田恒興の長男で輝政の兄。

寛政重脩諸家譜』では之助(ゆきすけ)となっているが、「元」と「之」の字形の類似による誤写である[注釈 4]

後室の塩川長満の娘は、織田信忠の妻と姉妹で、三法師は外甥にあたる。

略歴

幼少より織田信長に仕えた。史料に初めて登場するのは天正6年(1578年)12月の有岡城攻めで、父・恒興と共に倉橋郷の砦に入った。

天正8年(1580年)の荒木村重討伐では父や弟の輝政と共に活躍し、花隈城の戦い荒木元清を破り、信長からその功績を賞賛されて名馬を賜った。

天正9年(1581年)2月28日、父の名代として輝政と共に馬揃えに摂州衆として参加。以後、父を離れて単独で活動するようになり、池田氏の大将として振る舞う。

同年11月、信長は羽柴秀吉と元助に淡路国侵攻を命じた。元助は岩屋城を包囲し、由良城(由良古城)に籠城する安宅清康のもとに、家臣・伊木忠次と秀吉の腹心・蜂須賀正勝を送って投降を説得し、信長の許可を得たので、淡路勢は降伏して諸城は開城した。元助は清康を従えて安土城に伺候し、所領安堵の許しを得て淡路に帰還した[14]。秀吉撤退後も池田勢が淡路に駐屯した[15]

天正10年(1582年)、明智光秀与力衆の1つとして甲州征伐に出征した。続く中国遠征でも明智与力として準備を命じられていたが、6月2日にその光秀が謀反を起こして、本能寺の変で信長が横死する。

6月11日、中国大返し姫路城に戻った秀吉と会した父・恒興は、次男輝政も秀吉の養子にするという約束をして会盟した。さらに父は剃髪して勝入と号し、これに従って元助は紀伊守の称を継承した[16]。共に秀吉に従って山崎の戦いで明智光秀を破った。

清洲会議により、父は大坂・尼崎・兵庫の12万石を与えられたので、父が大坂に移って、代わりに元助が伊丹城に入り、弟・輝政尼崎城に入った。

(左)池田元助戦死の地とされる庄九郎塚[注釈 5]
(右)龍徳寺境内の池田元助の墓[注釈 6]

織田家の内紛でも父に従い、織田信雄に属して秀吉の味方となって、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参戦。父が美濃大垣城主となると、岐阜城主となった。秀吉と信雄の関係が悪化すると、今度は秀吉側につき、天正12年(1584年)、長久手の戦い三河を奇襲する部隊の一翼を担ったが、4月9日、徳川家康井伊直政・織田信雄らが率いる軍の要撃を受けて、父や義弟の森長可共々討死した。戦死の地と伝わる場所には「庄九郎塚」が建てられている[17]

元助の享年26とされる[2]が、『信長公記』では、天正8年(1580年)時点の記述で「元助、照政(輝政)兄弟、共に年齢15、16」とあり、兄弟の年齢差はあまり開いておらず[注釈 7]、元助の没年齢は実際には20代前半であった可能性もある[13]

人物

  • ルイス・フロイスは『日本史』中で、「非常に有能で思慮深い美濃国主の義弟にあたる若者がいた」と記録し、キリスト教の宗儀・世界の創造などについて説かれると聴聞した事を逐一書き留め、次に教会へ姿を現した際にはその全てを明白に、流暢に、一言一句の間違いなく反復することが出来たために人々はとても驚いたとしている。この美濃国主とは(一色龍興を指す[18]。上記の通り元助は龍興の義弟に当たる。

脚注

注釈

  1. ^ 同肖像画は二百回忌に合わせて子孫により制作されたものである[1]
  2. ^ 池田恒興の没後350周年で池田氏系図や池田氏家譜などの池田氏の資料をもとに書かれた『池田勝入斎信輝公小伝』では義龍の娘とある[4]。『尾張群書系図部集』でも義龍の娘[6]。他方『寛政重修諸家譜』では、伊勢兵庫某の娘が長男の由之の母となっているが[2]、伊勢貞良の項目には妻や娘については何も書かれていない[7]『寛永諸家系図伝』では正室は斉藤山城守女孫斎藤道三女孫)とある[要出典]。女孫とは「娘の産んだ孫。また、子の娘。孫娘」を指す[8]。『戦国遺文 佐々木六角氏編』等に収録される「八〇一 六角承禎条書案」は、永禄3年(1560年)に承禎の嫡男である六角義治(義弼)と斎藤義龍の娘の縁組を承禎が止めようとする書状だが、これにはそれ以前にあった伊勢守(伊勢貞孝、貞良の父)と斎治(斎藤義龍)との間の縁組についても書かれていることから[9][10]、時期はわからないが、伊勢貞孝か貞良が、義龍の娘か妹を娶っていたことになる。和田裕弘によると、元助の最初の妻は伊勢貞良の娘で、濃姫の姪でもあるために濃姫の養女となっており、恒興の母の養徳院の希望で元助に娶せたという[11]。義龍が妹を自分の養女として貞良に嫁がせたのであれば(和田説との)辻褄はあうが、その場合は、元助の妻は、義龍の姪(義理の孫娘)ということか。
  3. ^ 母は塩川長満の娘。由之は輝政に分知されて別家を作るので、『池田氏略系図』で元助流は元信からその子の信成へと続いたと書かれている[12]。ただし信成の室は、由之の子の由成の娘である。
  4. ^ 崩した字が「元」とも「之」とも判断がつかないため。『寛政重脩諸家譜』では之助とし、その嫡男もとしているが[2]、通説では之助は間違いで元助が正しいとされており[3]谷口克広も之助は元助の誤写であろうとする[13]
  5. ^ 在・愛知県長久手市。
  6. ^ 在・岐阜県揖斐郡池田町本郷。
  7. ^ 輝政は永禄7年(1565年1月)生[2]で、小牧・長久手の1584年時には19歳である。

出典

  1. ^ 『大名 池田家のひろがり』鳥取市歴史博物館の展覧会図録より
  2. ^ a b c d e f g 堀田 1923, p.403
  3. ^ a b 高柳 & 松平 1981, p.29
  4. ^ a b c 蔵知矩 1934, p.17
  5. ^ 丸島和洋「織田信房」「大竜寺麟岳」 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年, p.195。
  6. ^ a b 加藤国光 編『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、61-62頁。ISBN 9784797105551 
  7. ^ 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜 第3輯』國民圖書、1923年、660頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/339 国立国会図書館デジタルコレクション 
  8. ^ 女孫」『精選版 日本国語大辞典』https://kotobank.jp/word/%E5%A5%B3%E5%AD%ABコトバンクより2023年2月25日閲覧 
  9. ^ 『戦国遺文 佐々木六角氏編』八〇一・本文と現代語訳~長文で激怒する六角承禎”. 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』 (2019年7月15日). 2023年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月25日閲覧。
  10. ^ 村井祐樹 編『戦國遺文―佐々木六角氏編』東京堂出版、2009年、[要ページ番号]頁。 ISBN 9784490306583 
  11. ^ 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中央公論新社、2017年、[要ページ番号]頁。 ISBN 9784121024213 
  12. ^ 阿部 1990, p.74
  13. ^ a b 谷口 1995, p.47
  14. ^ 蔵知矩 1934, pp.34-35
  15. ^ 尾下成敏「羽柴秀吉勢の淡路・阿波出兵」『ヒストリア』214号、2009年3月。 
  16. ^ 蔵知矩 1934, p.38
  17. ^ 子育て・市民活動施設、文化財”. 長久手市. 2021年1月19日閲覧。
  18. ^ 「斎藤氏四代―人天を守護し、仏想を伝えず」259頁、木下聡

参考文献

関連項目


池田元助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:00 UTC 版)

仁王2」の記事における「池田元助」の解説

織田信長家臣幼少より信長仕え、父の恒興と共に歴戦した。明智光秀寄騎とされたが、本能寺の変起きると光秀のもとを離れ藤吉郎の軍に父と共に合流小牧・長久手の戦いでは、徳川本拠三河国奇襲を狙う。

※この「池田元助」の解説は、「仁王2」の解説の一部です。
「池田元助」を含む「仁王2」の記事については、「仁王2」の概要を参照ください。

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