北条氏盛とは? わかりやすく解説

北条氏盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 08:15 UTC 版)

 
北条 氏盛
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正5年(1577年
死没 慶長13年5月18日1608年6月30日
別名 助五郎
諡号 松林院殿浄誉心徹大禅定門
墓所 専念寺(大阪市
官位 従五位下美濃守
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉徳川家康秀忠
河内狭山藩
氏族 後北条氏
父母 父:北条氏規
母:高源院(北条綱成の娘)
養父:北条氏直
兄弟 氏盛菊千代、勘十郎、松千代北条直定室、白樫三郎兵衛室、東条長頼
正室船越景直の娘
氏信(長男)、氏利(次男)、氏重(三男)
テンプレートを表示

北条 氏盛(ほうじょう うじもり)は、安土桃山時代武将江戸時代初期の大名河内狭山藩の初代藩主。通称は助五郎。官位は従五位下美濃守

生涯

天正5年(1577年) 、北条氏規の子として誕生。

従兄にあたる後北条氏5代当主・北条氏直督姫徳川家康の次女)の養子となる。天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐によって後北条氏が滅亡した後、父と共に高野山に向かったが、やがて秀吉に許され、天正19年(1591年)、養父氏直が病死するとその遺跡である下野4千石の所領を与えられた。翌天正20年(1592年)、朝鮮出兵肥前名護屋に従軍した。

慶長5年(1600年)、実父氏規が死去するとその家督を継ぎ、五大老筆頭の徳川家康からも河内狭山にあった父の遺領7千石を安堵された。こうして氏盛は計1万1千石の大名となり、狭山藩の初代藩主となった。同年、関ヶ原の戦いでは東軍の西尾吉次隊に属し本領安堵、家康の征夷大将軍就任後は徳川氏に仕えた。

慶長13年(1608年)に死去、享年32。法名は松林院殿浄誉心徹大禅定門。墓所は専念寺(大阪市)。家督はまだ幼い嫡男の氏信が継いだ。

系譜

父母

正室

子女

  • 北条氏信(長男)
  • 北条氏利(次男)
  • 北条氏重(三男)

出典





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北条氏盛」の関連用語

北条氏盛のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北条氏盛のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの北条氏盛 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS