永禄8年 (きのとうし 乙丑)
年(年号) | |
●1555年 (弘治元年) | ■川中島合戦 |
●1560年 (永禄3年) | ■桶狭間の戦い |
●1563年 (永禄6年) | ■三河の一向一揆 |
●1573年 (天正元年) | ■室町幕府滅亡 |
●1575年 (天正3年) | ■長篠の戦い |
●1580年 (天正8年) | ■イギリス商船平戸に来航 |
●1582年 (天正10年) | ■本能寺の変 |
●1584年 (天正12年) | ■小牧・長久手の戦い |
・ 天海僧正 | 1536年〜1643年(天文5年〜寛永20年) | 29才 |
・ 本多 正信 | 1538年〜1616年(天文7年〜元和2年) | 27才 |
・ 徳川 家康 | 1542年〜1616年(天文11年〜元和2年) | 23才 |
・ 服部 半蔵 | 1542年〜1596年(天文11年〜慶長元年) | 23才 |
・ 織田 有楽斎 | 1547年〜1621年(天文16年〜元和7年) | 18才 |
・ 藤堂 高虎 | 1556年〜1630年(弘治2年〜寛永7年) | 9才 |
・ Jan Joosten Van Londensteyn | 1556年〜1623年(弘治2年〜元和9年) | 9才 |
・ 大久保 (彦左衛門)忠教 | 1560年〜1639年(永禄3年〜寛永16年) | 5才 |
・ 中井 正清 | 1565年〜1619年(永禄8年〜元和5年) | 0才 |
1565年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/27 09:33 UTC 版)
千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 15世紀 - 16世紀 - 17世紀 |
十年紀: | 1540年代 1550年代 1560年代 1570年代 1580年代 |
年: | 1562年 1563年 1564年 1565年 1566年 1567年 1568年 |
1565年(1565 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
他の紀年法
カレンダー
できごと
- 3月1日 - リオデジャネイロ市が建設される。
- 6月17日(永禄8年5月19日) - 永禄の変。三好三人衆らが将軍足利義輝を襲撃し、殺害。この際、二条御所が焼失。室町幕府がこれにより、一時的に滅亡状態となる。
- スペインがグアム島、北マリアナ諸島、ミンダナオ島北部を植民地化。
- ドイツの科学者コンラート・フォン・ゲスナーが「木にはさんだ」原始的な鉛筆の説明で、鉛筆について初めて記した。[1]
誕生
死去
- 1月19日 - ディエゴ・ライネス(en:Diego Laynez) 、イエズス会第2代総会長(*1512年)
- 6月17日(永禄8年5月19日) - 足利義輝、室町幕府第13代征夷大将軍(*1536年)
- 9月 - チプリアーノ・デ・ローレ、作曲家(* 1515年/1516年)
- 12月9日 - ピウス4世、第224代ローマ教皇(*1499年)
- 12月13日 - コンラート・ゲスナー、博物学者(* 1516年)
出典
- ^ チャロナー 2011, p. 172「鉛筆 英国人が、消去可能なマーカーを発明する。」
参考文献
- ジャック・チャロナー(編集)、2011、『人類の歴史を変えた発明 1001』、ゆまに書房 ISBN 978-4-8433-3467-6
関連項目
1565年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 05:41 UTC 版)
ツァーリがモスクワに帰還した1565年2月から処刑が始まった。まず処刑されたのは貴族アレクサンドル・ゴルバーティである。彼は1552年のカザン・ハン国征服の功労者であった。処刑の理由は、陰謀を企んだことによるとされたが、実際にはゴルバーティが豪胆で、平然とツァーリの批判を行ったためであると考えられている 。ゴルバーティの15歳の息子、妻の兄弟の侍従官(オコリニチー)П・ゴロヴィンの首も刎ねられた。ツァーリの座にオボレンスキー公を立てようとしたという理由で、二人の貴族が修道院に閉じ込められた。またツァーリの機嫌を損ねたロストフスキー公も処刑され、首はオプリーチニキがツァーリの元へ運んだ。さらに二人の名門士族が処刑された。二人のうち、ドミトリー・シェヴィリョフ公は串刺し刑にされた。5月には180人ほどの名門貴族を、強制的にカザンへ移住させた。対象となったのはロストフ、ヤロスラヴリなどの生え抜きの貴族であり、彼らはウラジーミル・スズダリ公国のなかに広大な世襲領地を持っていた。16世紀イギリスの外交官G.フレッチャーによると、ツァーリは世襲貴族の財産と領地を取り上げ、代わりに別の地方か遠隔地にある土地を封地として与えたという。歴史家スクルィンニコフはオプリーチニナやオプリーチニキ親衛隊の創設を、伝統的には許されない、世襲領の没収のためだと見ている。 彼らオプリーチニキの主な役割は要するに秘密警察であり、黒衣を着て黒馬に跨り、ツァーリの敵に噛み付くという意味の犬の頭、反逆者の掃討を意味する箒とを鞍に下げた。 オプリーチニキ隊員は国内において、ツァーリと対立していた貴族や、敵国と内通しているとされた都市の住民に対して殺戮を繰り広げ、マリュータ・スクラートフが1571年1月にノヴゴロドで行った虐殺は有名である。 だが、1572年にはツァーリによって過激すぎる活動が危険視され解散、その存在を抹消された。 とはいえ、オプリーチニキ隊員からは、ボリス・ゴドゥノフやヴァシーリー・シュイスキーなど、のちにツァーリとなるものまで現れている。
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