1566年のオスマン帝国の遠征
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「スィゲトヴァール包囲戦」の記事における「1566年のオスマン帝国の遠征」の解説
1566年1月、治世46年目の新年を迎えたスレイマン1世は、最後の遠征を始動した。まず3月半ばに、副宰相ペルテフ・メフメト・パシャ(トルコ語版)が先遣隊としてハンガリー方面へ出陣した。5月1日、スレイマン1世はイスタンブールを発った。彼が生涯で率いた中でも最大級の遠征軍だった。72歳で痛風に苦しみ、ほとんど輿に乗ったままの行軍だったが、名目上はこれがスレイマン1世の指揮する30回目の戦役だった。彼の軍はドナウ川の氾濫に悩まされながらハンガリーへ向かった。 対する神聖ローマ帝国・ハンガリー側では、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世がトルコ税(ドイツ語版)の増額を取り付けたものの、帝国内の問題で帝国議会が長引き、これが閉会して皇帝が議会から解放されたのは5月30日のことであった。前線ではジェールの司令官エック・フォン・サルム(ドイツ語版)がオスマン軍の別動隊を撃退し、スレイマン1世到着前にオスマン帝国領へ逆侵攻しいくつもの要塞を奪取した。しかしマクシミリアン2世は自分の軍勢召集を優先し、エック・フォン・サルムに進撃を止め、奪取した要塞の防衛に専念するよう命じた。8月12日にようやく出陣したマクシミリアン2世の軍勢は約6万人で、ハンガリーやクロアチアに駐留しているものを含めれば約8万5000人となった。 スレイマン1世は49日の行軍の末、6月27日にベオグラードに着き、東ハンガリー王ヤーノシュ2世と面会した。元よりスレイマン1世は、ゆくゆくはヤーノシュ2世を全ハンガリーの王にすると約束していた。神聖ローマ帝国側の将軍ニコラ・シュビッチ・ズリンスキがシクローシュ(英語版)のオスマン軍野営地襲撃に成功したとの報が入ると、スレイマン1世はエゲル攻撃を中断し、ズリンスキの脅威を排除するため彼の城スィゲトヴァールへと矛先を向けた。 ニコラ・シュビッチ・ズリンスキはクロアチア王国内の最大の領主で歴戦のベテランであり、また1542年から1556年まではクロアチアのバンの位にあった。彼は第一次ウィーン包囲で頭角を現した後、軍人として輝かしい経歴を歩んでいた。
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