1567年の議会(セイム)
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「ルブリン合同」の記事における「1567年の議会(セイム)」の解説
1567年1月、ポーランドのルブリンで議会(セイム、Sejm)が開かれたが、合意には至らなかった。合同締結へのポーランド人の強い圧力に抗議して、ヴィリニュス県知事ミコワイ・ラジヴィウ・ルディに率いられたリトアニア人はルブリンを3月1日に離れた。彼らは、ジグムント2世アウグストが決断することを恐れていた。 3月26日にジグムント2世は、リトアニア人が支配する南部の土地であるポドラシェ(Podlachia)、ヴォルィーニ、ポジーリャ、キエフ地方をポーランドに割譲するようにシュラフタから強要された。これらのルーシの歴史的な土地は、現在のウクライナ領土の半分以上を構成しており、当時上流階級を主にルーシ系(ウクライナ人とベラルーシ人)が占めていたリトアニアにとって重要な土地だった。この時、ポーランド王に忠誠を誓うことを拒否したルーシ系リトアニア貴族は領土を剥奪された。しかしこれは、ポーランドがルーシ系リトアニア貴族を迫害したのではなく、ポーランドとリトアニアの完全な合同により地方分権から中央集権への転換を望むポーランド・リトアニア両方の貴族の大多数による決定であった。 ルブリンを離れたルーシ系リトアニア貴族はヤン・カロル・ホトキェヴィチ(Jan Karol Chodkiewicz)の父ヤン・ホトキェヴィチ(Jan Chodkiewicz)に率いられて帰還し、ミコワイ・ラジヴィウ・ルディとは若干異なる戦略で交渉を継続した。セイムの議員は、リトアニアのポーランドへの完全な併合による中央集権化とそれによる国家財政の強化を望んでいたが、ルーシ系リトアニア人は反対し続け、連邦国家の形を取ることで合意した。1569年6月28日、最終的に交渉はまとまり、7月4日にルブリン城で王によりこの法令への調印が行われた。
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