オスマン帝国領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 05:51 UTC 版)
1645年、わずか2ヶ月の包囲戦に耐えられなかったハニアの城壁はオスマン帝国に陥落させられた。トルコ人らはキッサモスにあるゴニア修道院近くに上陸し、略奪を働き火を放った。多くの死者、特にトルコ人の死者が包囲戦で生じた。トルコ人司令官は、40,000人以上という兵士を失ったことから本国へ召還され処刑された。のち、ほとんどの教会はモスクに転用され、市の富は持ち去られた。トルコ人は主に東のカステリ地区、スプランツィア地区に居住した。スプランツィア地区のドミニコ会派の聖ニコラオス教会は中央モスク(Houghiar Tzamissi)に変えられていたからである。トルコ人らはKioutsouk Hassan Tzamissiのような港にある新しいモスクも作った。公衆浴場(ハンマーム)、泉はトルコの都市のような特徴であった。クレタ島のパシャはハニアに居住した。 1821年、ギリシャはオスマン帝国に対し反旗を翻し、ハニアにおいてもギリシャ人とトルコ人の間に対立が起きた。どちらの側からも犠牲者が出て、その多くはキリスト教徒であった。キッサモス主教メルヒセデク・デスポタキスは革命的な事件に参加したために、スプランツィアで絞首刑に処され木に吊された。1878年、ハレパ協定(英語版)が締結され、キリスト教徒は権利を与えられた。このためにクレタ島在住のイスラーム教徒らがトルコへ移っていった。島に残ったトルコ人らは、1922年のギリシャ=トルコの住民交換によって島を去った。
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