イギリスと「オスマン帝国領」の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:45 UTC 版)
「オスマン帝国領エジプト」の記事における「イギリスと「オスマン帝国領」の終焉」の解説
イギリスはその支配を通じてエジプト政府・エジプト副王に対して支配者として遠慮のない圧力をかけたが、一方で言論の自由を保障したためにイギリス支配下のエジプトでは言論活動は逆に活発化した。さらにエジプトにおけるイギリスの影響力に不満を持っていたフランスが反英的なマスメディアに大きな支援を行っていた。こうした中で、カイロ出身のアラブ系軍人ムスタファ・カーメルはフランスに渡って政治運動の手法を学ぶと共に人脈を築き、1896年の帰国とともに活発な反英民族主義的な政治運動を開始した。彼はフランスとの連携によるイギリス支配からの脱却を目指したが、これは1904年の英仏協商によってモロッコのフランス支配とエジプトのイギリス支配を両国が相互承認したことで挫折した。その後、カーメルらは1907年にムハンマド・ファリードらと共に民族主義政党ワタン党(国民党/祖国党)を結成したが、間もなくカーメルが急死し、時を置かずファリードも亡命を余儀なくされたことで国民党の運動は下火となった。 ムハンマド・アリー朝の副王アッバース・ヒルミ2世(在位:1892年-1914年)もまた、イギリスの支配に対して強い敵意を維持しており、カーメルらのような民族主義運動に対しては副王からの支援も行われた。しかし、1907年にクローマー卿が退任し、新たな高等弁務官にジョン・エルドン・ゴースト(英語版)が就任し、エジプト政府に対して融和的な姿勢を打ち出すと、アッバース・ヒルミ2世は対英協調路線に舵を切った。イギリスは一部の権限をエジプトの副王政府に移すなどの融和策を取ったが、このことはむしろ民族主義者たちの敵意を怒りを招き、「外国人」であるムハンマド・アリー朝の副王に対する反発を醸成した。ゴーストが首相として起用したコプト教徒のブトロス・ガーリは「現実主義的な」妥協姿勢でイギリス側に対応したが、これもまた民族主義者たちの敵意を呼び、結局1910年に暗殺された。ガーリ暗殺の翌年にはゴーストも病死し、イギリスの宥和政策はとん挫した。後任にはマフディー討伐で功績をあげたキッチナーが任じられ、クローマー卿の路線に復帰したが、キッチナーとアッバース・ヒルミ2世の関係は極めて険悪なものとなり、キッチナーはアッバース・ヒルミ2世の廃立を検討するに至った。 このような状況の中、1914年6月28日にオーストリア・ハンガリー二重帝国領サライェヴォで皇太子フェルディナンド2世が暗殺されるという事件が発生した(サライェヴォ事件)。この事件を契機として翌月にヨーロッパで協商側(イギリス・フランス・ロシア)と同盟側(ドイツ、オーストリア)の間で第一次世界大戦が勃発した。オスマン帝国が10月に同盟側に立って大戦に参戦すると、アッバース・ヒルミ2世はそれまでむしろ関係の悪かったオスマン帝国の青年トルコ党やエジプトの民族主義者との和解を急ぎ、エジプト国民に対してイギリス支配への対抗を呼び掛けた。これに対してイギリスはアッバース・ヒルミ2世を退位させるとともに、1914年12月18日、エジプトを一方的に保護領として宣言し、オスマン帝国から完全に切り離した。第一次世界大戦に協商側が勝利したことによってこの処置は確定し、またオスマン帝国が消滅するに至ってエジプトは名目的にも完全にオスマン帝国の支配から離れることとなった。
※この「イギリスと「オスマン帝国領」の終焉」の解説は、「オスマン帝国領エジプト」の解説の一部です。
「イギリスと「オスマン帝国領」の終焉」を含む「オスマン帝国領エジプト」の記事については、「オスマン帝国領エジプト」の概要を参照ください。
- イギリスと「オスマン帝国領」の終焉のページへのリンク