イギリスとの不和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/01 03:24 UTC 版)
「ミール・カーシム」の記事における「イギリスとの不和」の解説
だが、ミール・カーシムも自分をベンガル太守に擁立する代償にイギリスとの秘密条約でヴァンシタートに50万ルピー、イギリス東インド会社の高官に175万ルピー、イギリス東インド会社に150万ルピー、あわせて総額325万ルピーの支払いを約束していた。そのため、ミール・カーシムは様々な名目でその費用をザミーンダールから徴収し、支払わない者は財産を没収するなど強権的な態度に出たが、長年徴収されてばかりいたザミーンダールらの反感を買い、一部のザミーンダールは反乱まで起こした。 ミール・カーシムは才覚と強い意志を持つ人物でもあったため、この状況を見てだんだんとイギリスの支配から独立したいと思うようになった。彼はヨーロッパ人の軍事教官を雇い入れ、兵器も最新のものにするなどベンガル軍の改革に乗り出し、首都をムルシダーバードからビハールのムンガーに移転し、イギリスから軍の強化を悟られないようにした。 さらに、ミール・カーシムはベンガル軍の改革の成果をみるため、国境を接する隣国ネパールに密かに侵攻し、一応、ネパール軍を破ったがゲリラの抵抗が強く、領土を保持できず占領地からは撤退した。無論、これら一連の出来事は、ミール・カーシムとイギリスとの関係を悪化させた。 また、問題となっていたのはこれだけではなく、1717年の勅令に基づいて行われていたイギリス東インド会社社員による私貿易の免税問題であった。1717年にイギリスがムガル帝国の皇帝ファッルフシヤルから与えられたベンガルにおける関税の免除特権は、「船によって国に輸入され、もしくは国から輸出される品物について、会社の封印のある許可状を提示したもののみ関税を免除される」というものだった。だが、イギリス東インド会社の職員はプラッシーの戦いののち、勅許の内容を勝手に広く解釈し、彼らはすべての私貿易と広範な品物の取引が無税であると主張するようになった(自由通関権)。この特権の濫用は太守から重要な収入源を奪うものであったばかりか、関税が免除されない地元商人にとっても不利なものであった。 そのため、1761年12月、ミール・カーシムはイギリス東インド会社の社員によるすべて私貿易について、その税を支払うようイギリス東インド会社へと通達し、1717年の勅令の悪用に歯止めを掛けようとした。だが、イギリス東インド会社の高官も私貿易をおこなっており、ベンガル側の人間も賄賂を受け取り見逃がしたためほとんど効果がなかった。 また、1762年にはミール・カーシムはイギリスのインド人代理に不正があったこと、またイギリスが様々な方法でベンガルの人々を苦しめていると抗議した。たとえば、地元商人にイギリスの商品を扱わせなかったり、イギリスが徴税権を持つ土地において地元農民から農作物を4分の1の値段で強制的に買い上げたりする代わり、自分たちからは高く買わせ、違反者に厳しい対応をとるというものであった。だが、イギリス側はこれらの要求を無視し続けたため、ミール・カーシムとイギリスの関係はさらに悪化した。
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