イギリスとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 13:20 UTC 版)
「ムハンマド・アリー」の記事における「イギリスとの対立」の解説
第一次エジプト・トルコ戦争の後、ムハンマド・アリーは各地でイギリスと対立するようになった。イギリスは蒸気船の実用化が進むにつれて、ムハンマド・アリーの勢力圏を通らずに地中海からインド洋に至るための経路としてユーフラテス川を重要視するようになったが、1834年にイギリス東インド会社がユーフラテス川を調査する動きを見せたことにムハンマド・アリーは反発し、調査を許可しないよう命じるとともに中流域の要衝であるデールを占領して調査・開発の進行を阻んだ。 アラビア半島では、1818年のダルイーヤ陥落後一度は放棄していた奥地を再び占領下に置き、1839年には勢力圏をペルシア湾岸にまで伸ばした。この時エジプト軍の司令官はイギリス海軍の提督に対し、当時イギリスが勢力下に置いていたバーレーンを武力をもって制圧する準備があると告げた。この件ではイギリス側の反発を受けてムハンマド・アリーが譲歩し、バーレーンへ侵攻しないよう軍に命令を出した。 イエメンではイギリスが、ムハンマド・アリーの機先を制する形で1839年1月にアデンを占領した。これによりムハンマド・アリーはモカを抑えることで独占していたコーヒー貿易の利権をイギリスに奪われた上、紅海およびインド洋に対する政治的経済的影響力を失うこととなった。 エジプトの支配がペルシア湾岸のアル・ハサー(英語版)地方、紅海沿岸のティハーマ地方に及んだことはインドへの交易路としてペルシア湾、紅海を重視するイギリスの政策に直接の影響を及ぼした。さらにイギリスは中東地域を綿製品の有力な市場とみなしていたことから、イギリスからの綿製品輸入を規制し、繊維産業の国有化と製品の専売制を敷くムハンマド・アリーの存在を「国益に対する明らかな脅威」とみなすようになった。
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