イギリスとアメリカと日本における政策上の背景と経緯
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「日本への原子爆弾投下」の記事における「イギリスとアメリカと日本における政策上の背景と経緯」の解説
1939年1月、イギリス国王書簡局発行『年2回刊 陸軍将校リスト 1939年1月号』に、昭和天皇の名がイギリス正規軍の陸軍元帥として掲載される。 1939年8月2日、アメリカへの亡命物理学者のレオ・シラードらからの提案を受けたアルベルト・アインシュタインがルーズベルト大統領に宛てた手紙において、原子爆弾がドイツにより開発される可能性に言及し、核エネルギー開発の支援を進言。 1939年9月1日、第二次世界大戦が始まる。 1939年10月11日、その手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)がルーズベルトに届けられる。 1939年10月21日、アメリカはウラン諮問委員会を設置。 1940年4月10日、イギリスが、第一回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催。 1940年4月、理化学研究所の仁科芳雄がウラン爆弾計画を安田武雄陸軍航空技術研究所長に進言。 1940年4月、安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎 に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じた。 1940年6月、鈴木辰三郎は東京帝国大学(現・東京大学)の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出。 1940年7月6日、すでに仁科芳雄等がイギリスの学術雑誌『ネイチャー』に投稿してあった『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題する、2個の中性子が放出される (n. 2n) 反応や、複数の対象核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果が、掲載された。この実験では臨界量を超える天然ウラン(ウラン238-99.3%, ウラン235-0.7%)に高速中性子を照射したわけだが、現在ではそのことによってプルトニウム239が生成されることや、核爆発を起こすことが知られている。 1941年4月、日本陸軍が理研に原爆の開発を依頼。ニ号研究と名付けられた。 1941年7月15日、イギリスのMAUD委員会は、ウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。 1941年10月3日、MAUD委員会最終報告書が、公式にルーズベルト大統領に届けられる。 1941年11月末、後に連合国軍最高司令官総司令部の主要メンバーとなるユダヤ人ベアテ・シロタ・ゴードンの母で、日本の貴族院議員のサロンを主催していたオーギュスティーヌが、夫レオ・シロタと共にハワイから再来日。 1941年12月8日、日本がイギリス領マラヤでマレー作戦を、アメリカ準州のハワイで真珠湾攻撃を行ない、太平洋戦争が勃発。日本とアメリカは敵味方として第二次世界大戦に参戦することとなった。 1942年9月26日、アメリカの軍需生産委員会が、マンハッタン計画を最高の戦時優先等級に位置づけた。 1942年10月11日、アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。 1944年7月9日、朝日新聞に、『決勝の新兵器』と題して「ウラニウムに中性子を当てればよいわけだが、宇宙線には中性子が含まれているので、早期爆発の危険がある。そこで中性子を通さないカドミウムの箱に詰め、いざという時に覆をとり、連鎖反応を防ぐために別々に作ったウラニウムを一緒にして中性子を当てればよい。」という記事が掲載された。ウラン原爆の起爆操作と全く同じであった。 1945年7月26日、日本への最後通告としてポツダム宣言を発表した。
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