ウラン諮問委員会とは? わかりやすく解説

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S-1ウラン委員会

(ウラン諮問委員会 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 02:31 UTC 版)

1942年9月13日のボヘミアングローブ英語版におけるS-1委員会。左から右にハロルド・ユーリーアーネスト・ローレンスジェームス・コナントライマン・ブリッグス英語版エガー・マーフリー英語版アーサー・コンプトン

­S-1ウラン委員会(S-1ウランいいんかい、S-1 Uranium Committee)は、第二次世界大戦中のアメリカ合衆国に存在した委員会で、国防研究委員会の委員会の傘下にあった。ウランに関するブリッグス諮問委員会を引き継ぎ、後にマンハッタン計画に発展した。

第二次世界大戦開始

第二次世界大戦は1939年9月1日にドイツのポーランド侵攻とともに始まり、夏過ぎまで取り組んでいたフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領への手紙を完成するようアルベルト・アインシュタインレオ・シラードを駆り立てた。この手紙は8月2日にアインシュタインが署名し、1939年10月11日に経済学者アレクサンダー・サックス英語版によりルーズベルトに手渡された。手紙はドイツの原子爆弾開発が行われていることをルーズベルトに助言し、ドイツがウランを使った原子爆弾に関わっている可能性とウランのある場所と核兵器技術の調査をアメリカ合衆国が考慮すべきだと警告した。当時アメリカ合衆国は戦争には中立であった。

ウランの核分裂を伴う実験は、既にアメリカ合衆国の大学や研究所で行われていた。アルフレッド・リー・ルーミス英語版ローレンス・バークレー国立研究所アーネスト・ローレンスコロンビアエンリコ・フェルミを支援していた。ヴァネヴァー・ブッシュワシントンD.C.に本部を置くカーネギー研究所で同様の研究を行っていた。1940年4月29日のアメリカ物理学会の春の会議後、ニューヨーク・タイムズは会議出席者が「一部の科学者が僅かなウランで相当規模の地球を爆破する可能性がある」と議論したと報じた。

ウランに関するブリッグス諮問委員会

手紙の結果としてルーズベルトは密かにウランに関するブリッグス諮問委員会を組織するようアメリカ国立標準技術研究所理事のライマン・ブリッグス英語版に要請した。委員会の最初の会合は、1939年10月21日にワシントンD.C.で開かれ、6000ドルがコロンビアのフェルミとシラードにより運営されるニュートロン実験に予算化された。

ウランの4つの面が始めから問題になった。

  • 供給が他国により途絶することのない確実なウラン鉱石の発見
  • ウラン鉱石やプルトニウム製造によりウラン235を抽出する大規模製造方法の開発
  • ウラン(核分裂)連鎖反応爆弾の製造
  • 機械に動力を供給し同位体を合成する管理された核分裂の使用

MAUD委員会

イングランドではバーミンガム大学の二人の研究者オットー・ロベルト・フリッシュルドルフ・パイエルスが、1940年3月にフリッシュ=パイエルス備忘録英語版を発表した。この備忘録は船で運ぶ必要のある大量のウラン235が爆弾製造に必要である状態が一般に考えられていることに反論した。備忘録の見積もりは、爆弾はウラン235が僅か1ポンドあれば足り飛行機で運搬することが可能であるとした。

フリッシュとパイエルスの師であるマーク・オリファントは、MAUD委員会が密かに設置されるべきだと要請する空軍科学研究委員会英語版議長ヘンリー・ティザード英語版に備忘録を手渡した(「MAUD」は「ウラン爆発の軍事応用」のこと)。最初の会合は、1940年4月10日にあり、委員会は議長のジョージ・パジェット・トムソンや委員のマーク・オリファントパトリック・ブラケットジェームズ・チャドウィックフィリップ・バートン・ムーン英語版ジョン・コッククロフトで構成された。ラルフ・H・ファウラー英語版もライマン・ブリッグスに状況報告を送るよう要請された。

MAUD委員会は1941年7月15日にMAUD報告書を完成し、解散した。報告書は2章からなっていた。第1章はウラン235爆弾がトリニトロトルエン(TNT)1800トンに匹敵する核出力で放射性金属26ポンドを用いることで引き合うと主張している。第2章は管理されたウラン235の核分裂が機械と放射性同位元素の元を強化するための熱エネルギーの物となり得ると主張している。

1941年4月14日、ライマン・ブリッグスはユージン・ウィグナーのメモを受け取り、そこにはこう書かれていた。

数日前にベルリンからリスボンを経て到着した同僚が次の伝言を齎したことは、興味深いことかも知れません。技術研究所で働く信頼できる同僚が、大量のドイツ人物理学者がハイゼンベルクの下でウラン爆弾の問題に関して集中して働きハイゼンベルク自身が最悪の結果を恐れて可能な限り作業を引き延ばそうとしていると知らせるよう依頼しました。しかし与えられた命令を完遂せざるを得ず、問題が解決されれば、近い将来に解決される可能性があります。その為にアメリカ合衆国が遅れを取らないように助言が与えられました。

一方ヴァネヴァー・ブッシュが指揮するNDRCでは平和的なエネルギーに原子力を用いる可能性も探索していた。アーサー・コンプトン米国科学アカデミーの好都合な報告書が1941年5月17日に発表され、ルーズベルトとの協議後にブッシュは科学研究開発局(OSRD)を創設した。1941年7月1日、ブッシュはあらゆる核分裂研究を統括することになり、諮問委員会はNDRCのS-1計画となった。

マーク・オリファントは1941年8月にイングランドからアメリカ合衆国にブリッグスと委員会が明らかにMAUD報告書を無視している理由を見出しに来た。オリファントはブリッグスに直接送られた報告書などの文書が諮問委員会と共有されていない幻滅に至った。当時オリファントは緊急であることを告げにウラン委員会や同僚のアーネスト・ローレンスジェームス・コナントエンリコ・フェルミと会った。一連の会談でオリファントは確信をもって「爆弾」について語り、イギリスは計画を請け負える資源がないのでアメリカ合衆国に依存していると表明した。

S-1計画

1941年12月18日、ヴァネヴァー・ブッシュはウラン濃縮のための気体拡散英語版を研究するハロルド・ユーリーや電磁気濃縮技術を研究するアーネスト・ローレンスと共にアーサー・コンプトンが管理する加速するウラン235研究計画を組織する会合を開いた。

翌日大日本帝国真珠湾攻撃でアメリカ合衆国は戦争に突入した。4日後、アメリカ合衆国に宣戦布告した。12月18日の会合でS-1計画はウラン爆弾開発に専念することになった。

As a result of the MAUD Report, the British had started a uranium bomb program referred to by the codename Tube Alloys. Perceived slowness on the part of the United States had become a contentious issue between American and British scientists. Upon entry into the war, the U.S. placed increasing importance on working cooperatively with the British program. Roosevelt wrote a note to Winston Churchill outlining increased U.S.–UK cooperation, but was rebuffed by Churchill. Apparently the British felt the U.S. could add little to the effort at that point. This rebuff turned out to be a major blunder as the U.S. effort quickly caught up with the British effort, and the British realised that their pioneering effort would have no value if it were not quickly capitalized. Leadership of the American atomic (uranium) bomb project was transferred to U.S. Army General Leslie Groves from September 1942; Groves (in his own words) had never trusted the British, or anyone else.

1942年6月17日、ルーズベルトは元々のS-1部を解消するブッシュの提案に賛成しブリッグスやコンプトン、ユーリー、ローレンス、マーフィー・V・マーフリー英語版の各委員と共にジェイムス・コナントが議長を務める「S-1執行委員会」を創設した。計画はOSRSとアメリカ合衆国陸軍の間で強まる協力関係に入った。

On August 13, 1942, the Manhattan Project was created by the U.S. Army Corps of Engineers, and on September 23, 1942, command of the district was given to Groves. The S-1 Executive Committee created two more secret sites: "Site X" in Tennessee (Oak Ridge, Tennessee), where uranium-235 isotope separation was carried out at the Y-12, K-25, and S-50 sites, and "Site Y," a secret laboratory at Los Alamos in northern New Mexico (later Los Alamos National Laboratory), where the bomb design was developed.

As the Army role in the project grew larger, the role of the OSRD became more advisory. Eventually, in May 1943, the Army took full control over the OSRD's research and development contracts, and as such the S-1 Executive Committee became essentially inactive though never formally dissolved. Kenneth Nichols wrote that the committee routinely ratified the MPC's decisions and that The S-1 Committee was eliminated by mid-1943, as it had been superseded by the Military Policy Committee.[1] Bush, Conant, and other OSRD insiders continued their influence in the Manhattan Project through their participation in the Military Policy Committee.

参照

  1. ^ Nichols 1987, pp. 64, 115.
  • Jennet Conant, Tuxedo Park, Simon and Schuster (Apr 29, 2003) ISBN 0-684-87288-9
  • Kenneth Nichols, The Road to Trinity (1987, Morrow, New York) ISBN 068806910X
  • Thomas Powers, Heisenberg's War, Da Capo Press (Jul 17, 2000) ISBN 0-306-81011-5
  • Ferenc Morton Szasz, British Scientists and the Manhattan Project, Palgrave (Apr 15, 1992), ISBN 0-312-06167-6



ウラン諮問委員会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:07 UTC 版)

アインシュタイン=シラードの手紙」の記事における「ウラン諮問委員会」の解説

9月1日ドイツ電撃的ポーランド侵攻し遂に第二次世界大戦開始された。 ルーズベルト十分な時間取ってもらう必要を感じ直接面会こだわったザックスは、この急激な展開にはばまれ、いまだ手紙届けることができていなかった。 ひと月以上ザックスから何も連絡がないことにしびれを切らしたシラードウィグナーは、9月末にザックス訪問しそのこと知ったシラードらがザックスによる仲介諦めの手段を考え出した中、10月11日になってようやくザックスホワイト・ハウス大統領執務室の扉をノックしたルーズベルトとの面会においてザックスは、ナポレオン・ボナパルト夢想家呼んでアメリカ追い返したフルトン蒸気船の話を例え出しアインシュタインの手紙を読む代わりに自らの用意した短い文書読んで原子力もたらす両義的可能性重要性説明したルーズベルトは「つまり君が望んでいるのは、ナチスが我々を吹き飛ばさないようにしようということだね」と応じ、この会見によって、国立標準局局長ライマン・ブリッグズ (Lyman J. Briggs) を委員長とし陸海軍兵器専門家を含むウラン諮問委員会 (ウラニウム諮問委員会Advisory Committee on Uranium, 単にウラン委員会ウラニウム委員会とも) が設けられることとなった。 これは、民間資金工面し政府との連絡役となる非公式人物というシラードらが思い描き手紙記したものとは程遠いのだった10月21日、これらのメンバーと、ハンガリー陰謀団の3人シラードウィグナーテラー、およびブリッグズが招いたカーネギー研究所地磁気研究部物理学者リチャード・B・ロバーツ (Richard B. Roberts) などからなるメンバー第1回のウラン諮問委員会が開かれた。 この地磁気研究部ではシラードらとは別にしばらく前から連鎖反応評価進めていた。 シラード説明対しロバーツ天然ウランによる連鎖反応は有望でなく、自分たちが進めている高速遠心分離機によるウラン濃縮結果が明らかとなるまで数年大学での研究レベル留めておくべきだと主張した。 また陸軍の代表は新兵器防衛役に立つなどと考えるのは素人であり「兵器戦争の行方決めたり歴史作ったりするものではなく一般市民精神通して戦争勝利もたらされるのだ」とした長い演説始めたウィグナーはこのとき「それが正しいのなら、おそらく陸軍予算30 % 削減して、その素晴らし一般市民精神広めるべきでしょう」と皮肉で応酬している。 結果としてこのウラン諮問委員会は、主に潜水艦将来動力源として核エネルギー可能性言及する大統領への報告書を提出する終わった。 しかし同時に爆弾可能性にも言及し徹底的な調査のための適切な支援」として黒鉛減速材としての有効性確かめ当面実験必要な 6000 ドルフェルミグループ与えられることが約束された。 だが、この勧告その後およそ半年の間、ホワイト・ハウスファイルの中で忘れられたままとなり、その間フェルミシラード研究立ち往生することとなった

※この「ウラン諮問委員会」の解説は、「アインシュタイン=シラードの手紙」の解説の一部です。
「ウラン諮問委員会」を含む「アインシュタイン=シラードの手紙」の記事については、「アインシュタイン=シラードの手紙」の概要を参照ください。

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