戦争の行方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 21:26 UTC 版)
16世紀後半のトリーアの全景 ジッキンゲンの本拠エーベレンブルク城 ジッキンゲンの臨終 ジッキンゲン像 ウーフェナウ島 戦後、病に伏せるフッテン フッテンの墓がある聖ペテロ・パウロ教会 トリーア大司教が戦後発注したカノン砲 19世紀のロマン画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒは破壊されたフッテンらの廃墟を描いた トリーア大司教 ヘッセン方伯 プファルツ選帝侯 1522年8月、ジッキンゲンは友愛同盟の騎士を率いてトリーア大司教の領地へ攻め込んだ。トリーア大司教は神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ7名の選帝侯のうちの1人であり、この時のトリーア大司教リシャート・フォン・グライフェンクラウは、1519年の皇帝選挙のときに、カール5世の対抗馬だったフランスのフランソワ1世を支持した人物である。 トリーア大司教領は、聖界諸侯としては最大の勢力であるが、その本拠地トリーアの都市の軍事力は7人の選帝侯の領地の中では最も小さいものだった。そしてドイツ各地の中でも騎士が最も軽視されている領邦の一つだった。ジッキンゲンの軍はまずザンクト・ヴェンデルをやすやすと落とし、9月8日の夕刻にトリーア大司教の本拠、トリーアに到着して郊外に陣を張った。 このときトリーアを守る兵力はわずか1,800だったのに対し、ジッキンゲン側の兵力は総勢8,000から12,000ほどだったと伝えられている。ジッキンゲンの計画では、この兵力差では、これまで襲った他の都市と同じように、トリーアは簡単に降参するしかないだろうと考えていた。しかしジッキンゲンが驚いたことに、トリーア大司教は籠城して徹底抗戦を決め込んだ。ジッキンゲンはトリーアを包囲し、トリーア大司教は神聖ローマ皇帝を裏切ってフランスに通じていると罵った。 結局、ジッキンゲンはトリーアを落とすことができず、9月14日に陣を引き払って帰途についた。ジッキンゲンは、神聖ローマ皇帝カール5世に対し、ジッキンゲン軍はカール5世の味方であると訴え、カール5世の敵であるフランスへ攻め込んでみせましょう、と請け負った。しかし1522年10月10日、カール5世は、ジッキンゲンの行動は1495年の永久ラント平和令に反すると宣言した。 この宣言によって、ジッキンゲン追討軍が急速に編成された。その主力を担ったのは、ヘッセン方伯フィリップ1世、プファルツ選帝侯ルートヴィヒ5世とトリーア大司教である。なかでも18歳のヘッセン方伯はジッキンゲン討伐に燃えていた。ヘッセン方伯は父の急死により5歳で伯位を継いだのだが、ジッキンゲンがヘッセン方伯の領地や都市を攻撃していた頃はまだ11歳になるかならないかの頃であり、強硬な態度に出ることができずに賠償金を支払わされていた。その復讐の機会がようやく訪れたのである。ヘッセン方伯は最新式の火砲を買い揃え、真っ先にジッキンゲン討伐に名乗りを挙げたのだった。仲裁に入る者もいたが、彼らは全く意に介さなかった。 冬の間に軍備を整え、1523年4月末になって彼らはジッキンゲン討伐戦を始めた。3軍が合流したクライヒガウでジッキンゲンは敗退し、ラントシュトゥール城へ退却した。ジッキンゲンは城壁を補強して待ち構えていた。しかしヘッセン方伯が用意した新型の大砲は城壁を越える砲弾を放つことができ、城壁は城内への被害を防ぐ役には立たなかった。砲撃は数日間行われて、そのうち城内に砲弾の爆発から護られていない場所がみつかり、そこが狙われた。この攻撃で、ジッキンゲンは致命的な重傷を負った。再び調停に入る者があったが、攻撃側はこれを拒絶した。 ジッキンゲンは傷を負ったあと数日は持ちこたえたが、5月7日に遂にラントシュトゥール城は降伏した。ジッキンゲンはその数時間後に息を引き取った。このあと追討軍はジッキンゲン側の残党を掃討し、エーベレンブルク城も平定された。彼らの領地や城は徹底的に破壊され、打ち棄てられたと伝えられている。 フッテンはこの破壊を切り抜け、6月にドイツを脱し、スイスの宗教改革者ツヴィングリを頼ってチューリッヒに逃げた。フッテンはチューリッヒ湖の小島ウーフェナウ島に匿われたが、8月29日にそこで死んだ。死因は梅毒だった。
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