戦争の結果と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 03:05 UTC 版)
この戦争は、イングランド・オランダ両国の政治的思惑の懸隔もさることながら、両国の海運業や貿易における経済的利害の対立がいかに大きく、深刻なものであったかを何よりも物語るものであった。 イングランド護国卿オリヴァー・クロムウェルは再び、彼の当初の計画であった英蘭2国間の政治同盟を提唱したが、この申し出は10月21日にスターテン・ヘネラール(オランダ議会)によって拒絶された。それは、オランダ人たちがコモンウェルス(イングランド連邦)に加わる、ほんのわずかな傾向さえ持たないとクロムウェルがようやく理解したほど断固としたものであった。ついで、ハーグ派遣のイングランド代表団が2年前におこなった議論を繰り返し、スペインに対抗する軍事同盟を提案し、イスパノ・アメリカ、すなわちスペインの支配するアメリカ大陸各地の征服においてオランダが援助することと引き換えに航海条例の廃止を申し出た。これもまた拒絶された。結局、両国の懸案であったはずの航海条例は依然効力を発しつづけたことになる。 この結果を受けてクロムウェルは少し悩みながらも27条項にわたる提案をおこなった。ただし、そのうちの2項目はオランダ人たちからすれば、まったく受け入れがたいものであった。1つはオランダ国内のすべての王党派を追い出さなければならないことであり、もう1つはオランダの同盟国であるデンマークをスウェーデンと王国の戦いにおいて見捨てなければならないことであった。結局クロムウェルは降参するよりほかなかった。1654年4月15日、ウェストミンスター条約(英語版)が調印されて平和が宣言され、4月22日にはスターテン・ヘネラールが、4月29日にはクロムウェルが、これを承認した。この条約は秘密の付帯条項として「排除令(英語版)」をともなっており、それは最後のオランダ総督ウィレム2世の息子ウィレム3世(のちにイングランド王となるウィリアム3世)が、亡き父の位(オランダ総督)に就くのを禁ずるというものであった。この条項は、明らかにオラニエ派を恐れるクロムウェルの要求を踏まえたものであり、おそらくはオランダ共和派(英語版)の主要な政治家で、1653年7月に新しく「大議長」となった若きヨハン・デ・ウィットとその叔父であるコルネリス・デ・グラーフ(英語版)のひそやかな願望でもあったために挿入されたものと考えられる。 なお、オランダは以後イギリス海峡において英国旗に対し敬意をあらわすことを約束し、また、1623年にアンボイナ島(モルッカ諸島)で起こったアンボイナ事件についてもオランダ側が譲歩し、オランダ政府が8万5000ポンドの賠償金をイングランドに支払うことで決着が図られた。 しかしながら、2国間の商業的なライバル関係は解消されなかった。特に、彼らの新興海外植民地ではオランダとイングランドが貿易会社が軍艦と兵員を自前で所有しており、両者間の交戦がつづいた。オランダは、ケンティッシュ・ノック(英語版)とスヘフェニンゲンで失った明白な船舶の不足を補う戦列艦の建造計画に着手した。このとき海軍本部は、法律によってこれら60隻の新しい船の売却を禁じられている。 クロムウェルはオランダとの講和が成立すると、彼が宿敵とみなしたスペインへの攻撃を開始し、翌1655年5月にはジャマイカを占領した。この戦争(英西戦争(英語版))はイングランド王政復古の1660年までつづいた。
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