戦争の背景と原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:34 UTC 版)
「エクアドル・ペルー戦争 (1941年 - 1942年)」の記事における「戦争の背景と原因」の解説
ペルーとエクアドルの国境紛争は、両国の植民地時代にまで遡る。ラテンアメリカ諸国がスペインから独立した際、国境は概ね植民地時代の行政区画に沿って定められた。しかし、ペルーとエクアドルの国境に関しては植民地時代から既に行政区画の変更を巡る係争が存在しており、ここに問題が端を発する。 エクアドルは1822年にスペインから独立した大コロンビアの一部であったが、ペルーは1829年に早くも同国と戦った。大コロンビアは紛争地の一部であった。一連の戦いの後、タルキの戦い(英語版)を最後にペルーは敗れ、グアヤキル議定書が1829年9月22日に調印されて戦争は終結した。これに基づいて国境画定を実行するペデモンテ・モスケラ議定書により、大コロンビアとペルーの国境はスペイン植民地の副王領であるヌエバ・グラナダ副王領とペルー副王領の国境と概ね同じものに定められた。 その後エクアドルは、1830年に大コロンビアから独立した際に、大コロンビアの継承国家としてグアヤキル議定書で定められたペルーとの国境線の継承を主張した。しかし、ペルーは元の文書が見つからないためにこれの有効性に異議を唱え、その存在に疑問を投げかけた。さらに、条約締結国である大コロンビアが既に存在しないことなどを理由に無効であると主張した。 1859年から1860年にかけて、両国はアマゾンと国境を接する紛争地域を巡って争った。しかしこの時エクアドルは内戦状態にあり、ペルーのラモン・カスティーリャ(英語版)大統領を含む他のラテンアメリカ諸国との外交関係を妨げていた。 1887年には、両国が署名した条約によってスペイン国王が仲裁人として行動することが定められた。この結果結ばれたエレーラ・ガルシア条約は、紛争を恒久的に解決することが期待されていたが、ペルー議会は修正を導入した後にのみ条約を批准するとした。その後のペルーの修正にエクアドルは抗議して手続きを中止したため、国王は決定を下すことを控えた。
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