戦争の計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:32 UTC 版)
ポンティアック戦争が始まったのは1763年であるが、インディアンが攻撃の計画をしているという噂がイギリス当局に届いたのは1761年であった。オハイオ領土のセネカ族とミンゴ族が、部族連合を作りイギリス軍を追い出そうというワムパム(貝殻玉のビーズで綴られた伝言)の「戦いの帯」を回状を各部族に回した。グヤスタとタハイアドリスがいるミンゴ族は、自分達の土地がイギリス軍の砦に取り囲まれている事態を危惧していた。同じようなワムパムの「戦いの帯」はデトロイトとイリノイ郡でも作られた。しかし、インディアンの結束は進まず、1761年6月にはデトロイトのインディアンがセネカ族の計画をイギリス軍の指揮官に伝えた。1761年9月にウィリアム・ジョンソンがデトロイトで多くの部族との協議を開いた後は、脆弱な平和が維持されていたが、「戦いの帯」は回され続けた。1763年早くに「上の国」がフランスからイギリスに割譲されることを知ったインディアンによって、終に戦いの火蓋は切られた。 オタワ族によるデトロイト砦の攻撃で始まった戦いは、急速に地域全体に広がった。イギリス軍の砦のうち8つが占拠され、他にもデトロイト砦とピット砦が包囲されたが、これらは死守された。フランシス・パークマンの「ポンティアックの陰謀」では、これらの攻撃がポンティアックの作戦による協働行動であったとしている。パークマンの解釈は広く知られているが、この攻撃が全体計画の一部なのか、あるいは全体が「陰謀」であるのかはっきりした証拠がないとする歴史家もいる。 上述したように、インディアンの酋長は「指導者」でも「司令官」でもないから、これらの説は白人の思い込みに過ぎない。今日、白人学者の間で一般的となった見解では、前もって計画されたというよりも、ポンティアックらがデトロイト砦で行動を起こしたという話が「上の国」に伝えられ、既に不満を抱いていたインディアン部族が反抗に加わる動機を与えたことで、蜂起が広まったというものである。イギリス軍の砦に対する攻撃は同時ではなかった。多くのオハイオ領土のインディアン部族は、ポンティアックのデトロイト砦包囲の開始からほぼ1ヶ月は戦いを始めなかった。 パークマンは、ポンティアック戦争がイギリス軍を困らせることを意図したフランス人入植者によって密かに扇動されていたとも信じていた。この考え方は当時のイギリス当局によっても広く支持されていたものであるが、後の歴史家は蜂起にフランス人が関わったという証拠を見つけられなかった(フランス軍の手になるフレンチ・インディアン戦争の時の「戦いの帯」がまだインディアンの村を回っていたということもあり、フランスによる扇動の噂が立った)。フランス人がインディアン部族を掻き立てたというよりも、インディアン部族がフランス人を掻き立てようとしたのだと指摘する歴史家もいる。ポンティアックや他のインディアン部族の「指導者」はしばしば、フランス支配の復活とフランス=インディアン同盟の再現について話していた、ポンティアックは自分の村でフランスの国旗を掲揚することまでしていた。これらのことはすべて明らかに、フランス人もイギリスに対する闘争に加わるように吹き込むことを意図されたものだった。 ポンティアックら「調停役」(酋長)が「フランス支配の復活とフランス=インディアン同盟の再現」について話し合ったとしても何ら不自然なことではない。彼らの行動は部族の意志の反映である。フランス人入植者や交易業者の中にはインディアンの蜂起を支持した者もいたが、この戦争はフランスではなくインディアン部族の目的のためにインディアンによって始められ遂行された。
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