後の歴史
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「アストロノミシェ・ナハリヒテン」の記事における「後の歴史」の解説
シューマッハの死の後、しばらくの間、1825年頃から24年間シューマッハとともに天文台で研究したアドルフス・コルネリウス・ピーターセンが天文台長及び雑誌の編集長を務めた。1854年に死去したピーターセンは、後年、やはりかつてこの天文台で働いていたデンマーク人天文学者Thomas Clausenに編集を手伝ってもらった。 1854年からの編集者は、アルトハ天文台長を引き継いだドイツ人天文学者のクリスチャン・A・F・ペーテルスであった。1872年、天文台はアルトハからキールに移動し、ペーテルスはここで1880年に死去するまで雑誌の編集を続けた。最後の1年間は、息子のCarl Friedrich Wilhelm Petersが手助けした。雑誌は、1938年までキールで出版され続けた。 ペーテルスの死後、1881年からアーダルベルト・クリューガーが新しい天文台長、編集者となり、死去する1896年まで務めた。この時期、この雑誌は、ドイツ天文協会の機関誌であった。1896年から死去する1907年までは、かつてクリューガーを手助けしていたハインリヒ・クロイツが編集を行った。クロイツは、140巻から175巻を編集した。1880年から1907年のその他のスタッフには、天文学者のリヒャルト・ショールやエリス・ストレームグレンがいた。 1907年から1938年までの編集者は、ドイツ人天文学者のヘルマン・コボルトであった。 コボルトが1938年に引退すると、雑誌の編集所はキールからベルリンに移動し、第二次世界大戦中は、ダーレムの天文計算研究所で出版された。1945年、研究所はハイデルベルクに移転したが、雑誌はベルリン地域に残った。 戦後、ポツダム天体物理天文台長のハンス・キーンレンが編集を行った。この天文台は、ベルリン郊外のポツダムにあり、1948年からは、German Academy of Sciences at Berlinの前身となる出版社Akademie Verlagから発行された。キーンレンの生徒の一人ヨハン・ヴェンペが1951年に彼の後を継ぎ、22年間編集を務めた。 1949年から、ただし公式には1950年代から、1990年のドイツ再統一までは、鉄のカーテンのドイツ民主共和国の側で発行された。1974年からは、編集長と編集委員会が新設され、ドイツ語と英語の2カ国語で発行されるようになった。1990年にAkademie VerlagはVCHに引き継がれた。 1996年から今日まで(317巻以降)は、Wiley-VCHから発行されるようになった。この会社は、1921年創業のVerlag ChemieがJohn Wiley and Sonsに合併した1996年に設立された。編集所はポツダムの天体物理天文台に残され、2007年時点の編集者は、K. G. Strassmeierである。 過去180年以上に渡り、328巻で43,899報の論文を99,565ページに掲載している。
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