開業後の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/13 10:20 UTC 版)
「ノース・コースト線 (クイーンズランド州)」の記事における「開業後の歴史」の解説
1930年代にブリスベン - ケアンズ間で長距離旅客列車「サンシャイン・エクスプレス」の運行が開始され、1953年に「ザ・サンランダー」の運行が開始された。1979年にブリスベン都市圏の電化が開始された。1996年にブリスベン中心部で複々線化が開始された。1998年にブリスベン - ロックハンプトン間で「ティルト・トレイン」が導入された。2009年にカブルチャー駅 - Beerburrum間の複線化が完成した。
※この「開業後の歴史」の解説は、「ノース・コースト線 (クイーンズランド州)」の解説の一部です。
「開業後の歴史」を含む「ノース・コースト線 (クイーンズランド州)」の記事については、「ノース・コースト線 (クイーンズランド州)」の概要を参照ください。
開業後の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 15:02 UTC 版)
「ロンドン・アンド・グリニッジ鉄道」の記事における「開業後の歴史」の解説
この鉄道は1836年から1840年にかけて毎年125万人以上の乗客を輸送した。これは当時発展しつつあった観光業の恩恵を受けた結果だと考えられる。 1839年6月にはロンドン・アンド・クロイドン鉄道(L&CR)が開業し、同社とはトゥーリー・ストリートとコーベッツ・ラインの間の路線を共有した。また同社はグリニッジ鉄道の駅とトゥーリー・ストリートとの間に自社の駅を設置したが、その駅がいつからロンドン・ブリッジ駅と呼ばれるようになったのかははっきりしていた。 コーベッツ・レーンには、ポイント制御に使われた最初の固定信号が設置されたと考えられている。これは、ポイントマンが操作する白い円盤で、夜間は赤い光でクロイドン方面へのルート設定を示していた。円盤の端が点灯していたり、白いランプが点灯していたりすると、そのポイントはグリニッジ方面に設定されていた。 1840年には、コーベッツ・レーン信号場までの追加線の敷設と、ロンドン・ブリッジ駅の改良・拡張のためにさらに2つの法律が制定された。これらはクロイドン鉄道、ロンドン・アンド・ブライトン鉄道(L&BR)、そして提案されていたサウス・イースタン鉄道によって結成された委員会が注視していた。またこの時クロイドン鉄道とグリニッジ鉄道はコーベッツ・レーンでの交差を避けるために駅を交換していた。1842年、スパ・ロード駅(英語版)が再設置された。 1843年までに年間乗客者数は150万人を超え、平均運賃は6.5ペンスであった。1844年には乗客数は200万人を超え、一方で平均運賃は5.2ペンスに減少した。グリニッジ鉄道は毎時4本、クロイドン鉄道は毎時1本の運行であった。このように乗客は非常に多かったが莫大な建設費を負債として抱えていたため経済的には成功しなかった。 ロンドン・ブリッジに近づく路線の混雑が進み、さらにグリニッジ鉄道が設定する高い通行料への不満から、サウス・イースタン鉄道(SER)とクロイドン鉄道はブリックレイヤーズ・アームズに新しい終着駅(ブリックレイヤーズ・アームズ駅(英語版))を建設した。1844年に新線が開通すると運行列車の大部分が移転し、運賃も引き下げられた。これによって運賃収入が減少したグリニッジ鉄道は破産寸前まで追い込まれた。同社はブリックレイヤーズ・アームズ駅開業前からSERに対してグリニッジ鉄道の買収または賃借を提案していた。SERからの回答には時間を要し、その間にグリニッジ鉄道はブライトン鉄道からも同様の申し出を受け、クロイドン鉄道とは通行料の値下げ交渉を行なった。最終的にSERは1845年の年初めからグリニッジ鉄道を賃借することに合意した。 グリニッジ鉄道会社は1923年まで存続していたが、その活動はSERからの賃料受け取りと株主への配当のみに制限されていた。
※この「開業後の歴史」の解説は、「ロンドン・アンド・グリニッジ鉄道」の解説の一部です。
「開業後の歴史」を含む「ロンドン・アンド・グリニッジ鉄道」の記事については、「ロンドン・アンド・グリニッジ鉄道」の概要を参照ください。
- 開業後の歴史のページへのリンク