開業後の事故多発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 19:31 UTC 版)
こうして全通した木ノ本 - 敦賀港間は本線として、また、大陸連絡の重要路線(敦賀港駅とボート・トレインの記事を参照)として位置づけられるのだが、路線の脆弱さ、地域条件の険しさなどから様々な事件に見舞われる。 柳ヶ瀬トンネルは勾配がきつく上り列車がトンネル内で立ち往生、あるいは逆行することがしばしばあり、機関士、乗客の窒息事故が頻繁に起こった。 全線を通して雁ヶ谷駅を頂点とする25‰の険しい勾配の線区のため、特に上り方面では一旦止まると蒸気機関車は上り坂では発進できず刀根駅ないしは敦賀駅まで逆戻りしての再発進を余儀なくされた。 豪雨の際は雁ヶ谷側で川が氾濫すればその水がトンネルから刀根村側に流れ込み、しばしば洪水になった。 豪雪地帯でもあるため、雪崩による事故は毎年のことであった。 異常繁殖したヤスデが線路を覆い、機関車が通ると潰れたヤスデから出た体液の油分により空転を起こし、走れなくなる事故もあった。 こうしたことから敦賀機関区は対処する技術の開発を余儀なくされ、それが技術の向上にもつながった。 集煙装置 従来、蒸気機関車の煙突から出る煙はトンネル天井部にぶつかった反動でトンネル断面全体に広がり、これが乗務員の呼吸困難等を引き起こしていた。これを解消するため、煙突にかぶせた煙を後方に送る鉄製の箱が集煙装置である。煙突からの煙は、地上区間では今までどおり上方に排気されるが、トンネル内では集煙装置上方のシャッターを閉じ、煙を装置後方の排気口からトンネル天井に沿った形(機関車の上を通過する形)で排気する。この装置の効果は絶大で乗務員からも非常に好評だったため、敦賀式集煙装置と呼ばれその後、日本全国のトンネルの多い勾配区間を走行する機関車に広まった。考案者は、1952年当時の敦賀機関区長、増田栄である。 重油併燃装置 この時代、あまり良質の石炭は供給されず泥炭もしくはそれに近い低質炭と呼ばれるものが主として使われた。これらの石炭は通常のものと比べて燃焼火力が不足気味であり、また石炭の供給不足をも補うため、ボイラー上部に設置された重油タンクから供給される重油を火室内に噴霧・燃焼することにより、火力を向上させると共に煤煙を減少させる仕組みが考案された。重油併燃装置は機関助手の投炭作業の軽減にも役立ったため、勾配区間の多い線区や機関車の出力を要求される線区に広く採用された。 隧道幕 雁ヶ谷ポータルに開閉式の幕(帆布製生地で肋骨板にマニラロープを横に数条通したもの)を設け、機関車がトンネル内に入ると幕を閉め、上方に設けた排煙装置から煤煙を排出する仕組み。幕を閉じることによってトンネル入り口からの空気の供給が絶たれ、列車の後方が気圧の低い状態となるため、通常は列車にまとわりつくように動いていた煙が列車後方に吸い出されるようになる。列車後方に残された煙は排煙装置から排出され、次の列車がトンネルに進入する際に煙が残らないようにされた。 運転室換気装置 地上近くの清浄な空気を圧縮し機関車運転室に送り換気を促進するもの。具体的にはブレーキ用の圧縮空気を機関士の足元付近のパイプ内に噴射し、その導引カによって炭水車後部下辺からトンネル内の低部の新鮮な空気を取り込む装置(炭水車の水の中をパイプで通る時に冷やされてくる)である。それでも機関士は濡れタオルを口に巻いて運転していた。 貨物輸送に関しては、高月、木ノ本、敦賀、今庄各駅で編成を分割・統合していた。補機の付け替えは中ノ郷・敦賀・今庄で行われた。やがて、強力なディーゼル機関車・電気機関車が主力となり、蒸気機関車の時代は終わった。
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