開業後の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 16:34 UTC 版)
800灯余りで始まった馬関電灯の供給事業だが、その後の需要の伸びは緩やかであり、供給が2,000灯を超えたのは1902年(明治35年)、3,000灯を超えたのは1906年(明治39年)のことであった。1906年以降需要増加のペースは若干加速し、1908年(明治41年)に需要家数が1,000戸を突破し、明治末期の1911年(明治44年)には需要家数2,500戸・電灯数9,500灯に達する。電灯が本格的に普及するのは大正に入ってからで、年間5,000灯前後のペースで需要が増加していき1913年(大正2年)には需要家数約8,000戸・電灯数約2万1,000灯となった。この間、供給区域は下関市内のみのままで拡大していないため、こうした需要増加は供給料金の引き下げ(料金は1910年より低下し1913年には10燭終夜灯は月額85銭となった)を主とする新規需要の開拓によっていた。 電源は創業以来火力発電のみで変化はないが、1910年(明治43年)に増設とともに発電所を下関市竹崎町に移転している。1913年には再度増設され、発電所出力は800キロワットとなった。 馬関電灯の業績は一貫して安定しており、資本金を1901年(明治44年)に10万円、1907年(明治40年)に25万円、1912年(大正元年)に50万円として増資を重ねつつ、収入・利益を着実に伸ばして年率12 - 14パーセントの高配当を維持した。日露戦争後の1906年に燃料の石炭価格が高騰した影響で一旦減益となったが、産炭地の九州北部に近接する地の利から中国地方の他の事業者に比して影響は小さく、この時期でも減配は行っていない。
※この「開業後の展開」の解説は、「馬関電灯」の解説の一部です。
「開業後の展開」を含む「馬関電灯」の記事については、「馬関電灯」の概要を参照ください。
- 開業後の展開のページへのリンク