開業後の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/10 18:18 UTC 版)
市電上飯田停留場は名鉄上飯田駅の至近距離にあり、乗り換えは便利であった。戦後、名鉄小牧線は沿線が名古屋市のベッドタウンとして発展したことで乗客が増加する。名鉄小牧線と市電御成通線を乗り継ぐ乗客も増加し、さらに市電沿線の上飯田北町・上飯田南町一帯に住宅が増加したことで、上飯田は商店街が形成されるほどの街となった。また1951年(昭和26年)12月、上飯田には北部方面の操車合理化のため市電の操車場(上飯田操車場)が設置された。同所は1959年(昭和34年)4月に操車場から電車運輸事務所に昇格し、車庫など施設が拡充されている。 1960年代に入ると御成通線沿線には上飯田駅ビルに併設された公団住宅をはじめ総戸数1千戸を越える団地が相次いで完成し人口が増加した。しかしながら名古屋の都市圏は市電沿線外にも拡大しており、そういった地域には市電よりも柔軟に路線が設定できる市営バスが普及したことから、市電と市営バスが競合するようになった。バスとの競合以外にも自動車の増加による道路渋滞の激化、事業そのものの大幅な赤字化など市電を取り巻く環境が悪化した結果、市は市営地下鉄を建設するとともに市電を順次廃止していくという方針を採り、1967年(昭和42年)1月には市電全廃を盛り込んだ長期計画を策定した。 そして1971年(昭和46年)2月1日、御成通線全線を含む菊井町停留場(西区)から上飯田停留場まで6.8キロメートルの市電路線が一括して廃止された。最終営業日の1月31日には路線廃止に伴う「サヨナラ式」が上飯田停留場にて挙行されている。また廃線と同時に車両基地の上飯田電車運輸事務所も閉所された。 市電廃止後、市北部には地域の発展に伴う交通需要の増加に対処するためとして市営地下鉄名城線の建設が進められ、市電廃止後の同年12月に市役所駅から黒川・平安通を経て大曽根駅まで延伸された。一方で名鉄小牧線は上飯田駅と都心部を結ぶ鉄道路線を失うこととなり、都心部への移動は渋滞に巻き込まれると時間の読めなくなるバスに乗車するか、約1キロメートル離れた地下鉄平安通駅まで徒歩連絡するかの二択となった。この不便を解消するため1990年代になって上飯田連絡線の建設計画が浮上、2003年(平成15年)3月に地下鉄上飯田線が開業している。
※この「開業後の動き」の解説は、「名古屋市電御成通線」の解説の一部です。
「開業後の動き」を含む「名古屋市電御成通線」の記事については、「名古屋市電御成通線」の概要を参照ください。
開業後の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/27 15:50 UTC 版)
1922年(大正11年)8月1日、名古屋電気鉄道市内線を名古屋市が買収・市営化し名古屋市電気局(後の交通局)が引き継いだことで名古屋市電が成立した。これに伴い行幸線は名古屋市電の路線となっている。 市営化後、1922年12月に運転系統の改訂が実施され、行幸線には起点の明道橋から東片端線・葵町線を通り御黒門線門前町(後の大須)へと至る系統が設定された。この系統は、明道町から西へ伸びる明道町線などの開通に伴い1924年(大正13年)3月より名古屋駅前を発着する循環系統となり、以後太平洋戦争後の一時期を除いて1970年(昭和45年)まで運転が続くことになる。 戦後の行幸線は西の明道町線、東の東片端線とともに環状線の北部を構成したほか、名古屋駅前と北区各地(黒川・大曽根・上飯田など)を結ぶ運転系統が多数経由した(#運転系統参照)。 名古屋市電は1950年代末に路線網・輸送人員ともに最盛期を迎えたが、事業の大幅な赤字化や市営バスの急速な拡大、自動車の普及による交通事情の変化など市電を取り巻く環境が変化したことから、市は1965年度(昭和40年度)から段階的な市電の撤去に着手し、1968年(昭和43年)12月には1973年度(昭和48年度)までに市電を全廃すると決定した。最大で5系統あった行幸線を通過する運転系統も段階的に縮小され、末期には名古屋駅前と御成通線上飯田を結ぶ系統のみ残された。そして1971年(昭和46年)2月1日、菊井町 - 上飯田間6.8キロメートルの廃止に伴い行幸線も全線廃止となった。
※この「開業後の動き」の解説は、「名古屋市電行幸線」の解説の一部です。
「開業後の動き」を含む「名古屋市電行幸線」の記事については、「名古屋市電行幸線」の概要を参照ください。
開業後の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/27 15:51 UTC 版)
1922年(大正11年)8月1日、名古屋電気鉄道市内線を名古屋市が買収・市営化し名古屋市電気局(後の交通局)が引き継いだことで名古屋市電が成立した。これに伴い東片端線は名古屋市電の路線となっている。 市営化後、1922年12月に運転系統の改訂が実施され、東片端線には行幸線明道橋(後の明道町)から平田町・葵町線を経て御黒門線門前町(後の大須)に至る系統が設定された。この系統は路線の延伸により1924年(大正13年)3月より名古屋駅前を発着する循環系統となり、以後太平洋戦争後の一時期を除いて1970年(昭和45年)まで運転が続くことになる。その後東片端線では、大津橋で大津町線と直通する系統、東片端で高岳線と直通する系統、終点平田町で山口町線と直通する系統などが設定されるようになった(#運転系統参照)。 名古屋市電は1950年代末に路線網・輸送人員ともに最盛期を迎えたが、事業の大幅な赤字化や市営バスの急速な拡大、自動車の普及による交通事情の変化など市電を取り巻く環境が変化したことから、市は1965年度(昭和40年度)から段階的な市電の撤去に着手し、1968年(昭和43年)12月には1973年度(昭和48年度)までに市電を全廃すると決定した。最大で6系統あった東片端線を通過する運転系統も段階的に縮小され、末期には名古屋駅前と御成通線上飯田を結ぶ系統のみ残された。そして1971年(昭和46年)2月1日、明道町線菊井町 - 御成通線上飯田間計6.8キロメートルの廃止に伴い東片端線も全線廃止となった。
※この「開業後の動き」の解説は、「名古屋市電東片端線」の解説の一部です。
「開業後の動き」を含む「名古屋市電東片端線」の記事については、「名古屋市電東片端線」の概要を参照ください。
- 開業後の動きのページへのリンク