開業後から廃止まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:25 UTC 版)
「越後交通長岡線」の記事における「開業後から廃止まで」の解説
こうして1915年(大正4年)10月7日与板 - 大河津 - 寺泊間が長岡鉄道として開業した。1916年(大正5年)1月5日西長岡 - 与板間が延伸開業、1921年(大正10年)11月18日来迎寺 - 西長岡間(来迎寺線)が延伸開業し、全線開通を果たした。1928年(昭和3年)には日本で初めてディーゼルカーを導入している。沿線住民には長鉄(ちょうてつ)の通称で親しまれていた。しかし、国鉄長岡駅への乗り入れが無く、非電化路線であることから運行速度の遅い長岡鉄道は深刻な赤字に悩まされた。そのため1950年(昭和25年)に経営再建のために衆議院議員であった田中角栄が社長に就任し、1951年(昭和26年)より高速化のために全線電化が行われた。この成果により田中は当時旧新潟3区の中では疎遠であった三島郡を票田とすることに成功する。電化により1日数本であった本数も増発・高速化されたため、従来長岡市内への通勤・通学者は冬季間の下宿を余儀なくされていたが、通年して通うことが可能となった。夏になると寺泊方面に行く海水浴客で賑わい、客車も「マッチ箱」の愛称で親しまれていた。 1960年(昭和35年)長岡鉄道・栃尾鉄道・中越自動車の三社合併により越後交通となると長岡線と改称された。しかし長岡市中心部への接続がない当線は、自家用車の普及や需要の減少により乗客数は減り続け、1975年(昭和50年)3月31日限りで旅客営業が廃止された。その後は貨物専業に転換、区間を縮小しながらも営業を続けたものの、こちらも既に需要が頭打ちであった。そして1995年(平成7年)3月31日限りで全線が廃止となった。鉱山、臨海臨港鉄道の類を除けば、旅客営業の廃止後20年に渡り貨物営業のみが行われていたのは、日本では珍しい例である。また1960年(昭和35年)から西長岡駅より日産化学工業長岡工場専用線が存在していたが、1972年(昭和47年)に工場閉鎖に伴い廃止された。
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