社長に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:37 UTC 版)
政治の季節が終わり、経済が主役の季節が到来すると日経は経済紙のカラーを存分に生かしてサラリーマン層に食い込み、朝毎に対抗しうるだけの存在基盤を築こうとした。「出社前三十分 - それがあなたを決定します」というサラリーマンの心理をたくみに捉えた絶妙なコピーで購買意欲を掘り起こし、豊かになった中間層を中心に読者を着実に獲得していった。1960年から1970年までの十年間の間で、日経の部数の伸びは読売をさらに上回り、七十パーセントを超える驚異的な成長を示していた。だが、経済紙という制約ゆえに、一般紙とちがって部数の伸びには自ずと限界がある。そこで日経は、新聞社そのものを、情報産業へと改造してしまうことで、朝毎との競争に打ち克とうとした。「新聞だけ」を出していた新聞社から、コンピュータを軸にデータを売りものにする「新聞も」出していた新聞社へ、新聞企業の形態を変えようと圓城寺は試みるのである。社長時代「経済に関する総合情報機関」を提唱し、日経流通新聞、日経産業新聞を創刊。また、IBMの協力の下にコンピュータを導入した新聞制作の自動化と世界初の鉛を使わない印刷システムを稼働させ、1975年にはデータバンク局を新設し森田康(のち社長)が事業を軌道に乗せてゆく。 1969年、財界の出資でつくられた東京12チャンネル(現:テレビ東京)が、放漫経営がたたって、にっちもさっちも行かなくなり、興銀会長の中山が圓城寺のもとを訪ねて「東京12チャンネルを日経で引き受けてもらえないか」と要請した。もはやテレビなしでは、どんな百万を超える部数を誇る新聞社であってもメディアのメジャーたりえない時代が到来していた。日経は、12チャンネルに先立って開局した日本教育テレビ(NET)(現:テレビ朝日)の設立に一枚噛み、NETには副社長を送り込み形の上では一応、経営参加を果たしていた。しかし、NETの株式は朝日新聞に買い占められ、事実上朝日の傘下にあった。このままでは有力紙の中で日経だけがテレビを持てなくなりそうだった。そうした状況にあったが、圓城寺ははじめから「ほしい」とは一言も言わなかった。あせらなくても日経以外に売り込む先がないことがわかっていたからである。経営権売買交渉は中山たちの足もとを見た日経側が買い叩き、難航した。直接の売却交渉は、日経側から圓城寺の意を受けた常務の佃正弘が出席して続けられるが、結局、財界は日経の希望に沿った値段で12チャンネルを売り渡した。 公職では経済・産業政策の立案などに参画。50を超える審議会・調査会に名を連ね、ひと頃「審議会男」という異名が付き、石油審議会、経済審議会、中央社会保険医療協議会などでは会長を務めた。ほかに土光敏夫が会長を務めた第二臨調では、圓城寺は会長代理に選ばれている。
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