社長の座を息子へ、会長就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:20 UTC 版)
「安藤百福」の記事における「社長の座を息子へ、会長就任」の解説
1981年(昭和56年)、社長の座を長男の安藤宏寿(母親は台湾時代の第1夫人の黄綉梅)に譲り、自らは会長に退くが、その2年後の1983年(昭和58年)、宏寿が経営方針の相違から社長を退任したため、百福が会長兼任で再び社長に復帰した。1985年(昭和60年)6月に次男の宏基(母親は3人目の妻安藤仁子)が社長に就任し(宏基は現在日清食品ホールディングスのCEO)、再び会長専任となった。 社長退任後、安藤はかねてから関心を寄せていた「日本人は何を食べてきたのか」というテーマを探求すべく、4年間にわたり日本各地を巡って郷土料理を食べる旅に出た。続いて「いつ、誰が、どこで、ラーメンを生みだしたのか」という疑問から中国、中央アジア、イタリアなどを巡る旅に出た。1987年(昭和62年)、食文化の探究のために「麺ロード調査団」を結成して料理研究家の奥村彪生とともに上海、南京、揚州、広州、厦門、福州、成都、北京、西安、蘭州、ウルムチ、トルファンなど中国全土を巡って300種類を超える麺を食べた。さらに文化人類学者の石毛直道にシルクロードを通じて世界各地に伝搬した麺の歴史を研究させて麺の系譜図を完成させた。調査の結論として安藤は、「ラーメンは中国を起源とし、シルクロードを通ってイスラム世界に伝わり、さらにイタリアへ伝わった」と見解を示している。 1996年(平成8年)、食品業界におけるベンチャーを奨励するために基金を設立し、基金をもとに「食創会(新しい食品の創造開発を奨める会)」が設立された。食創会は日本経済新聞社の後援の下、食品研究・開発者を対象とした安藤百福賞を主催している。 1999年(平成11年)、安藤がチキンラーメンを開発した大阪府池田市にインスタントラーメン発明記念館が建設された。記念館の中には安藤が開発研究を行った小屋が再現された。(この小屋には「研究や発明は立派な設備がなくてもできる」という思いが込められているとのことである。)2001年(平成13年)には日本経済新聞『私の履歴書』において自伝を執筆。安藤は「自らの人生の浮き沈みを世の中に語って、果たして何の意味があるのか」という思いから日経新聞からの要請を断り続けていたが、「何か人に言えない具合の悪いことでもあるのか」と担当者に言われたことに反発し、執筆を決意した。 2002年(平成14年)頃から宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発に取り組んだ。スペース・ラムには無重力空間でもスープが飛び散らないよう粘度を高め、スペースシャトル内で給湯可能な70度の湯で調理ができるようにする、麺をボール状にするなどの工夫が施された。スペース・ラムは2005年(平成17年)7月にアメリカ合衆国が打ち上げたスペースシャトル「ディスカバリー」に搭載され、宇宙飛行士の野口聡一によって食された。野口が最初に食べた「スペース・ラム」は「とんこつ味」だったという。
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