トルファン【Turfan】
高昌区
(トルファン から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/23 14:14 UTC 版)
中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 高昌区 | |
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簡体字 | 高昌 |
繁体字 | 高昌 |
拼音 | Gāochāng |
カタカナ転写 | ガオチャン |
ウイグル語 | قاراھوجا رايونى |
ウイグル語ローマ字転写 | Qarahoja |
国家 | ![]() |
自治区 | 新疆ウイグル |
地級市 | トルファン市 |
行政級別 | 市轄区 |
面積 | |
総面積 | 13,689.71 km² |
市区 | 14.9 km² |
人口 | |
総人口(2010) | 27.3 万人 |
経済 | |
電話番号 | 0995 |
郵便番号 | 838000 |
ナンバープレート | 新K |
行政区画代碼 | 650402 |
公式ウェブサイト: http://www.turpanchina.gov.cn/ |

高昌区(こうしょう-く)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区トルファン市に位置する市轄区。トルファン盆地の中央に位置する。古くより交通の要所であり、シルクロードの要衝として栄えた。現在は観光都市となっている。
歴史
前漢代に車師国の一つ車師前国があり、その王城は交河城(ヤルホト)と言った。この城の下には河が流れているので、交河城と言う。その当時で人口が六千五百とある(当時の首都・長安の人口が二十四万ほど)。この交河は現在のトルファン市街から西に10キロメートルほど行った所にその遺跡がある。これに対して漢は現在のトルファン市街から東へ45キロメートル行った所に高昌城(カラホジョ)を築いて屯田を行っていた。
その後、中国から戦乱を避けて高昌へと移り住むものが多くなり、北涼の王族の沮渠氏が車師国を滅ぼして、450年に高昌国を立てる。この高昌国は柔然に圧迫されて滅び、その後は北方民族(柔然・高車・突厥)の影響下の元に闞・張・馬の四氏が王となり、498年に麴嘉(きくか)が高昌王になり、640年に唐に滅ぼされるまで続く。
高昌を征服した唐はこの地に安西都護府を置いて西域経営の拠点とした。しかし唐は755年のソグド人と突厥の混血でもあった安禄山による長安占領(安史の乱)などを経て国力を弱めていく。唐はその後、ウイグル帝国に援軍を要請し、ウイグル軍が安史の乱を鎮圧する。以後、ウイグル帝国とともにチベット(吐蕃)も唐の混乱に乗じて台頭する。
9世紀になると天山ウイグル王国の支配下に入り、夏都とされた。
モンゴル帝国の征服後にはチャガタイ・ハン国に領有され、分裂後は東チャガタイ・ハン国の領有となる。チャガタイ・ハン国が弱体化しティムールに支配されるとその支配下となったが、1500年にシャイバーン朝によりティムール朝が弱体化すると、再び東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)の支配下となる。1514年にチャガタイの末裔がカシュガルでヤルカンド・ハン国を建てると、1679年までその支配下となった。
トルファンの名前は明代より流布し始め、その意味はウイグル語で「くぼんだ地」を意味する。西域番国志によると、15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「土爾番」と記録されている)を訪れている。
清代にはジュンガルとの間で争奪戦が行われ、清が勝利する(ジョーン・モドの戦い)。
20世紀にはいると、ドイツのグリュンヴェーデルやル・コック、イギリスのスタイン探検隊、日本の大谷探検隊がこの地に入り、出土品を持ち帰った。その中でも文献群は敦煌文献と並んで貴重であり、西域と古代の研究に大量の史料をもたらした。
2015年3月16日、トルファン地区が地級市のトルファン市に昇格するとともに、旧トルファン市が市轄区の高昌区となる。
地理
トルファンは海抜がマイナスの場所がほとんどであり、トルファン市街のそばにあるアイディン湖の水面は海抜-154mで、中国で最も低いところにある。
150キロ北西にウルムチ、350キロ東にハミが位置している。
気候
一年を通して非常に乾燥している砂漠気候で年間降水量は20mmにしかならない。海抜-154mという低地にあるため、夏の暑さは非常に過酷で、最高気温は平均で40℃に上り、最高気温極値はで50.2℃を記録した。冬の寒さは厳しいものの、ウルムチよりは温暖である。標高で約1,000mも低い位置にあるためである。また砂漠地帯であるために風が非常に強く、20m以上の風が吹いている。
トルファン(1971 - 2000年平均、極値1951 - 2017年)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 8.5 (47.3) |
19.5 (67.1) |
31.7 (89.1) |
40.5 (104.9) |
43.6 (110.5) |
47.6 (117.7) |
49.0 (120.2) |
47.8 (118) |
43.4 (110.1) |
34.3 (93.7) |
23.0 (73.4) |
9.6 (49.3) |
49.0 (120.2) |
平均最高気温 °C (°F) | −2.3 (27.9) |
6.0 (42.8) |
16.3 (61.3) |
26.5 (79.7) |
33.3 (91.9) |
37.9 (100.2) |
39.6 (103.3) |
38.0 (100.4) |
31.9 (89.4) |
21.8 (71.2) |
9.5 (49.1) |
−0.8 (30.6) |
21.5 (70.7) |
日平均気温 °C (°F) | −7.6 (18.3) |
−0.5 (31.1) |
9.5 (49.1) |
19.3 (66.7) |
25.9 (78.6) |
30.5 (86.9) |
32.2 (90) |
30.0 (86) |
23.2 (73.8) |
13.2 (55.8) |
2.7 (36.9) |
−5.8 (21.6) |
14.4 (57.9) |
平均最低気温 °C (°F) | −12.1 (10.2) |
−6.0 (21.2) |
3.2 (37.8) |
12.4 (54.3) |
18.7 (65.7) |
23.2 (73.8) |
25.0 (77) |
22.8 (73) |
16.3 (61.3) |
7.1 (44.8) |
−2.1 (28.2) |
−9.6 (14.7) |
8.2 (46.8) |
最低気温記録 °C (°F) | −28.0 (−18.4) |
−24.5 (−12.1) |
−10.4 (13.3) |
−1.8 (28.8) |
4.7 (40.5) |
11.5 (52.7) |
15.5 (59.9) |
11.6 (52.9) |
1.3 (34.3) |
−5.7 (21.7) |
−17.8 (0) |
−26.1 (−15) |
−28.0 (−18.4) |
降水量 mm (inch) | 1.1 (0.043) |
0.5 (0.02) |
1.2 (0.047) |
0.5 (0.02) |
0.9 (0.035) |
2.9 (0.114) |
1.9 (0.075) |
1.8 (0.071) |
1.6 (0.063) |
1.7 (0.067) |
0.6 (0.024) |
1.0 (0.039) |
15.7 (0.618) |
平均降水日数 | 1.5 | 0.3 | 0.3 | 0.6 | 0.9 | 2.3 | 2.0 | 1.9 | 1.2 | 0.7 | 0.3 | 1.1 | 13.1 |
% 湿度 | 60 | 45 | 31 | 26 | 28 | 31 | 33 | 37 | 42 | 51 | 54 | 61 | 41.6 |
平均月間日照時間 | 159.7 | 188.6 | 239.5 | 256.8 | 299.6 | 301.2 | 311.7 | 305.9 | 278.8 | 250.6 | 184.7 | 135.1 | 2,912.2 |
出典:中国气象局 国家气象信息中心 2014-01-01 |
行政区画
4街道、5鎮、4郷を管轄:
- 街道弁事処:老城路街道、高昌路街道、葡萄溝街道、紅柳河街道
- 鎮:七泉湖鎮、大河沿鎮、ヤル鎮(亜爾鎮)、アイディンキョル鎮(艾丁湖鎮)、ユズュムチリク鎮(葡萄鎮)
- 郷:チャトカル郷(恰特喀勒郷)、カラゴジャ郷(二堡郷)、アスタナ郷(三堡郷)、シンギム郷(勝金郷)
民族
ウイグル族が70%を占め、残りは漢族が多い。
経済
砂漠地帯に水を持ってくるための機構が特徴的である(en:Turpan water system)。その水源は天山山脈の雪解け水で、山の麓から20 - 30mの間隔で井戸を掘って並べ、その底をつなげて水路としたものである。11世紀ごろにイスラム勢力より伝わったと言われ、カレーズ (坎児井) と呼ばれる。
交通
観光地


外部リンク
- 「中国西部のイスラーム建築」 トルファン(日本語)
脚注
関連項目
トルファン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:04 UTC 版)
トルファンは、天山南道(西域北道)の東方に位置し、タリム盆地とは別に独立した盆地を形成している。漢語では吐魯番と書き、古代の車師国、高昌国にあたる。トルファン地方は標高が海抜ゼロメートルよりも低い特異な地形で、盆地底部のアイディン湖の水面の標高は海面下154メートルに達する。この地は降水量がきわめて少なく、風が強く、夏は酷暑で冬は寒いという、厳しい気象条件のもとにある。しかしながら、この地は天山北路と南路の分岐点にあたる東西交易路の要衝であることから、歴史上さまざまな民族や国家がこの地の支配権をめぐって争った。紀元前2世紀から紀元後5世紀まで、当地には車師(車師前国)というオアシス国家があり、交河城(ヤールホト遺跡)を本拠としていた。紀元前1世紀には前漢が当地に入植し、軍事要塞を築いた(後の高昌故城)。その後6世紀初頭からは甘粛出身の一族である麹氏が当地を支配した(麹氏高昌国)。この国は約140年間存続したが、640年唐によって滅ぼされた。唐は当地を西州と改称し、安西都護府を置いて西域経営を開始した。安西都護府はその後クチャに移ったが、トルファン地区の国際的重要性はその後も変わらなかった。9世紀にはウイグル族がこの地に移住し、高昌回鶻(天山ウイグル王国)を建てる。 トルファン周辺にはカラホージョ(高昌故城)、交河故城、アスターナ古墓群、ベゼクリク千仏洞などの都城跡、古墓、石窟寺院が残されている。カラホージョ(高昌故城)は、内城が一辺約1キロメートル、外城が一辺約1.5キロメートルの方形プランの都城跡である。その起源は紀元前1世紀の前漢時代にさかのぼり、唐の支配下で西州と呼ばれた時期を経て、高昌回鶻の時代まで存続した。仏教寺院址のほか、景教(ネストリウス派キリスト教)の絵画、マニ教の経典など他宗教の遺物も出土している。アスターナは故城の北に位置する古代の埋葬の地で、3世紀から8世紀に至る古墓が見出されている。乾燥した気候のため、ここに埋葬された遺体はミイラ化し、出土品にも一般の遺跡では残りにくい絹製の染織品、紙に描かれた絵画などの有機性の遺物が多くみられる。日本の東京国立博物館とMOA美術館にある、樹下人物を描いた紙絵はアスターナ出土で、同じ墳墓から出土したものが別々のルートで日本にもたらされたものである。 この地区を代表する遺跡としてベゼクリク千仏洞がある。千仏洞はトルファンの東方50数キロメートルに位置し、ル・コックらのドイツ隊が調査した40窟のほか、上流に位置するものを含めると80窟以上を数える。これらの石窟は古くは6世紀から造営が始められているが、現存する壁画の多くは9 - 10世紀にウイグル人によって描かれたものであり、14世紀、元朝の頃に放棄されたものとみられる。窟は石窟のほか、一部に日干煉瓦で築いたもの、石窟と日干煉瓦窟を接合したものがある。ベゼクリクの仏教壁画は、ドイツ隊が「誓願図」と名付けた、この地特有の主題によるものが多いのが特色である。誓願図とは、仏が前世の修行の功徳によって、来世に仏となる約束を授かるという主題で、構図は中央に仏立像をひときわ大きく表し、その周囲に菩薩、天部、比丘、王、婆羅門などの像を表すものである。ウイグル時代の壁画には、寄進者であるウイグル人の貴人男女を表したものもある。なお、ベゼクリクの壁画は、ル・コック率いるドイツ隊によって大量に持ち出され、現地にはほとんど残っていない。 高昌故城 ベゼクリク千仏洞 ウイグル貴人女子 ベゼクリク千仏洞 ウイグル人貴人男子ベゼクリク千仏洞 マニ教経典 カラホージョ出土 ウイグル貴人絵幡 カラホージョ出土 胡服美人図 アスターナ出土 新疆ウイグル自治区博物院 樹下美人図 アスターナ出土 MOA美術館
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