西域経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
漢の武帝は、中央アジアの遊牧民である匈奴対策のために、月氏への使者として張騫を送る。張騫は当初の目的を果たせずに帰国するが、彼は西方の情報を武帝に伝えて、漢の西域進出のきっかけとなった。隋は6世紀から吐谷渾を攻撃して、西域での官貿易を再開して、長安や洛陽を訪れる隊商を歓待した。隋の西域経営は唐に引き継がれ、唐は都市と州府を駅道で結んで通行証にあたる過所を発行した。中央アジアにおける過所は隊商の許可も兼ねており、漢人の商人が西域の貿易に参加しやすくなった。唐は外来のソグド人を興胡という身分に定め、内地の商人である行客とともに課税対象とするかわりに過所を発行して通行を保証した。唐の駅伝制では、駅制は国都と州府の使者や緊急の情報伝達用、伝制は公用の交通や輸送として使われ、駅道は貢納、軍事、交易を支えた。絹の産地である河東、河南、剣南道から中央アジアに庸調の絹が送られ、8世紀の中央アジアでは絹が帛練と呼ばれて物品貨幣に用いられた。オアシス国家や遊牧民は、貿易ルートを唐に管理されることと引きかえに唐領内の交易に参加する機会を得て、唐の首都である長安にはソグド人の隊商が西域の産物をもたらした。ササン朝からはペルシアの宝石、香料、貴金属細工、織物などの物産のほかに衣食住の風俗や音楽も流入して、長安に住むペルシア系の人々は胡人と呼ばれた。7世紀にイスラームのカリフ国の攻撃でササン朝が滅び、アラブ軍はソグディアナも占領したため、多数のペルシア人やソグド人が長安に亡命した。
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