西域征伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:48 UTC 版)
335年4月、寧戎校尉張瓘が後趙の将軍王擢を三交城において破った。 12月、張駿は西胡校尉・沙州刺史楊宣に兵を与えて西域へ派遣し、流沙を越えて亀茲・鄯善を討伐させた。配下の将軍張植が軍の前峰となって進軍すると、向かうところの国々はみな降伏した。焉耆へ到達すると、国王龍熙は賁崙城に籠って張植を阻んだ。張植はこれに敗れたので、鉄門に進駐しようとしたが、10里余りも進まぬうちに、龍熙は先んじて兵を率いて遮留谷を押さえた。張植はこれに至ると、伏兵を疑って試しに単騎を囮にして進ませると、予想通り兵が伏せられていた。張植はこれを見てから兵馬を発し、敵軍を大破すると、尉犁に拠った。龍熙は4万人を率い、肉袒して張植の陣営を詣でると、降伏した。これにより、西域諸国はみな服属し、姑臧へ朝貢するようになった。12月、鄯善王元孟が娘を献上してくると、これを美人と称し、賓遐観を建てて住まわせた。また、焉耆前部・于闐王は共に使者を派遣して方物を貢いできた。 またこの年、河から玉璽が発見された。それには「執万国、建無極」と刻まれていたという。 時期は不明だが、前涼に背いていた戊己校尉趙貞の討伐軍を派遣し、これを撃破して捕らえると、その地を高昌郡とした。
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