西域を支配下に置く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:42 UTC 版)
紀元前177年、匈奴の右賢王が河南の地へ侵入し、上郡で略奪を働いた。そのため、右賢王は漢の丞相の灌嬰に討たれた。白登山の一件以来、漢は初めて匈奴に手を出したが、その頃の冒頓は西方侵攻に忙しく、特に咎めることなく、むしろ匈奴側の非を認めている。この時、冒頓は条約を破った右賢王に敦煌付近にいた月氏を駆逐させると共に、楼蘭、烏孫、呼掲および西域26国を匈奴の支配下に収めている。
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