西域の旅とは? わかりやすく解説

西域の旅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:47 UTC 版)

玄奘」の記事における「西域の旅」の解説

玄奘は、仏典の研究には原典拠るべきであると考えまた、仏跡巡礼志し貞観3年629年)、隋王朝変わって新しく成立した唐王朝出国許可求めた。しかし、当時唐王朝成立して間もない時期で、国内情勢不安定だった事情から出国許可下りなかったため、玄奘国禁犯して密かに出国役人監視逃れながら河西回廊経て高昌至った高昌王である麴文泰は、熱心な仏教徒であったため、当初高昌国国師として留めこうとしたが、玄奘インドへの強い思い知り金銭人員両面援助し通過予定国王に対して保護援助求め高昌王名文書持たせた玄奘西域商人らに混じって天山南路途中から峠を越えて天山北路へと渡るルート辿って中央アジアの旅を続けヒンドゥークシュ山脈越えてインド至ったナーランダ僧院では戒賢シーラバドラ)に師事して唯識学び、また各地仏跡巡拝した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナ保護を受け、ハルシャ王へも進講している。 こうして学問修めた後、西域南道経て帰国の途につき、出国から16年経た貞観19年1月645年)に、657部の経典長安持ち帰った。幸い、玄奘帰国した時には唐の情勢大きく変わっており、時の皇帝太宗玄奘業績高く評価したので、16年前密出国の件について玄奘が罪を問われることはなかった。 太宗玄奘密出国咎めなかった別の理由として、玄奘西域学んできた情報政治利用したい太宗思惑があったとする見方もある。事実玄奘帰国後、太宗側近となって国政参加するよう求められたが、彼は国外から持ち帰った経典翻訳第一使命考えていたため太宗要請断り太宗もこれを了承したその代わり太宗は、西域見聞した諸々情報詳細にまとめて提出することを玄奘命じており、これに応ずる形で後に編纂された報告書が『大唐西域記』である。

※この「西域の旅」の解説は、「玄奘」の解説の一部です。
「西域の旅」を含む「玄奘」の記事については、「玄奘」の概要を参照ください。

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