西域平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)
呂光は高昌まで到達した所で、苻堅が東晋征伐の大遠征軍を興したという報告を聞いた。情勢が変わった事から、呂光は進軍を一旦止めて次の命を待つべきだと考えた。だが、杜進は「節下(呂光)は金方(西方)を任されているのです。速やかに機に赴くべきです。まだ完遂していないのに、どうして留まっていられましょうか!」と進言した。呂光はこれに同意して進軍を再開し、流沙を越えて三百里余りを進撃した。そして遂に焉耆まで到達すると、焉耆王龍熙は抗戦しようとせず、周辺諸国を伴って降伏を願い出た。 同年12月、さらに亀茲まで進出したが、亀茲王白純は降伏を拒み、徹底抗戦の構えを見せた。そこで呂光は城南に布陣すると、五里毎に陣営を一つ設置し、溝を深く塁を高くして守りを固めた。また、広く疑兵を設け、木に甲を着せて兵士に見せかけ、塁の上に並べた。これを見た白純は外に配していた兵を城内へ戻して籠城し、傘下の附庸や侯王にも各々の城を固守するよう命じた。 384年、呂光は亀茲城へ進んで急攻を開始すると、白純は国の財宝を尽く差し出して獪胡(西方の遊牧民族)へ救援を要請した。獪胡王はこれに応じ、弟の吶龍と侯将の馗に騎兵20万余りを与え、さらに温宿・尉頭らの国王も引き込み、総勢70万余りの兵で救援に向かわせた。西域の兵は弓馬に長けており、矛槊(長柄の矛)を使いこなし、鎧は連鎖のように強固であり、射抜く事が出来なかった。また革索(革の紐)で羂(輪の形の縄)を造り、馬を馳せて敵兵目掛けて投擲すると、多くの兵がこれに掛かってしまった。呂光の兵はこれを大いに憚り、諸将はみな各々陣営に兵を留まらせ、隊列を為して敵軍を距もうと考えた。だが、呂光は「彼の兵は多く、我が兵は少ない。また、各々の陣営も遠く離れており、これでは勢力が分散する事になってしまう。良策ではないな」と述べ、陣営を移動させて互いが連携出来るように接近させ、鉤鎖の法を為した。また、精鋭騎兵を遊軍として配し、軍の弱い箇所を補わせた。そして城西において決戦を挑むと、これに大勝して1万余りの首級を挙げた。白純は珍品や宝物を持って逃走し、王侯で降伏した者は三十国を越えた。
※この「西域平定」の解説は、「呂光」の解説の一部です。
「西域平定」を含む「呂光」の記事については、「呂光」の概要を参照ください。
- 西域平定のページへのリンク