諸国を慰撫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:24 UTC 版)
こうして呂光は亀茲の本城へ入ると、その城は長安市街のように立派であり、宮殿は甚だ盛美であったという。彼は将士と共に盛大に酒宴を催し、賦詩や言志を作らせると、京兆出身の参軍段業に命じて『亀茲宮賦』を作らせ、その壮麗なる宮殿を譏らせたという。 西域に住む胡人はみな奢侈であり、養生にも余念が無かった。家には必ず葡萄酒が置かれ、中には千斛を有する家もあり、10年を経ても腐敗する事が無かったという。その為、士卒の中には酒蔵に入り込み、酒に溺れてしまう者が相次いだという。 呂光は西域を安撫してよく治めたので、その威恩は甚だ著しかった。諸国はその威名を憚り、みな自らの誠心を示そうと使者を送ったので、その行列が道に連なったという。かねてより中華王朝に賓しようとして来なかった桀黠(悪知恵が働く事)なる胡王でも、万里の彼方より帰属を願い出てくるようになり、漢代をも上回るほどの国が印章を与えられた。呂光はいずれも表して自ら任官を行い、また白純の弟である白震を亀茲王に立て、民心を安堵させた。 同年8月、西域平定の報告を受けた苻堅は書を下し、呂光を使持節・散騎常侍・都督玉門以西諸軍事・安西将軍・西域校尉に任じ、順郷侯に進封すると、1千戸を加増した。ただ、戦乱により道が途絶えていた為、呂光の下へは届かなかった。
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