秦の宰相に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 09:40 UTC 版)
穆公は連れ戻された百里奚と国事について三日三晩語り合い、彼に国政をあずけることを決めた。ときに百里奚70余歳。 百里奚は徹底した徳政を行い、周辺諸国を慰撫する政策をとった。これにより周辺の10カ国が秦に服属することを申し出で、百里奚は文字通り千里(1国=百里、10国=千里)を拓き、国力を大いに増大させた。このことは、始皇帝の代に秦が中国を統一する基盤となった。 また清廉潔白で、冬でも外套を着ず、国内を巡察するときは衛兵に武器を持たせなかったという。更に百里奚は、彼がかつて世話になった親友の蹇叔の登用を穆公に薦め、それを受けて穆公は蹇叔を秦へと招聘し、上大夫とした。 百里奚が宰相になったとき、すでに90歳を越えていたものと思われ、死んだときは100歳近かっただろうといわれる。死因は定かでないが、『史記』蒙恬伝に「蒙毅曰く『昔、わが秦の穆公は、三良(3人の立派な臣)を殺し(殉死させ)、百里奚を処罰されましたが、罪を犯したわけではありませんでした。それゆえ号(諡号)を繆(穆と同じ:誤ると同義)と申し上げるのです』」とあり、処刑された可能性を記している。穆公は過ちを認識し、それ故に子の孟明視を重用したとも考えられる。百里奚が没すると秦の男女はみな涙を流し、子供たちも歌声をあげなかったとされている。 子の孟明視や親友の蹇叔も百里奚の死後、宰相となって穆公をよく補佐した。
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