秦の宰相
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張儀はその後、魏を討ち、上郡・少梁を獲得した功績で宰相となった。しかし魏が斉に接近するようになると、魏に仕官して魏の宰相となり、このまま秦に攻撃されても他国が頼むに足らないことを説き、秦と魏の同盟を成立させることで連衡を成功させ、再び秦の宰相となった。この際、かつて張儀を袋叩きにした楚の宰相に対し、「あなたはかつて私を疑い、ひどい目にあわせたが、今度は本当にあなたの城を奪ってやる。」との文を送りつけたと言われている。 紀元前316年、蜀に内紛が起きたのでこれに乗じるべきかと恵文王に問われた時に張儀は韓を攻めて、周を恫喝し、天下に号令すべきと説いたが、恵文王は司馬錯の献言に従い蜀を占領した。
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秦の宰相
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紀元前251年、秦で高齢の昭襄王が在位55年で逝去し、その次男の孝文王が立つと子楚は秦に送り返され太子となったが、間もなく孝文王が50代で逝去したために太子の子楚が即位して荘襄王となった。呂不韋は丞相(当時は相邦と呼ばれていた)となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられた。呂不韋の狙いは見事に当たり、秦の丞相として彼の権勢は並ぶものがなかった。 紀元前247年、荘襄王が若くして死に、太子の政が王となった。呂不韋は仲父(ちゅうほ、父に次ぐ尊称あるいは「おじ」という意味)と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がった。 紀元前241年、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている。
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