甘羅とは? わかりやすく解説

甘羅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/27 06:50 UTC 版)

甘 羅(かん ら、生没年不詳)は、中国戦国時代の政治家。下蔡(現在の安徽省阜陽市潁上県)の出身[1]。秦の恵文王武王昭襄王に仕え丞相にもなった甘茂は祖父にあたる。また甘茂は甘寧東晋甘卓の祖と伝わる[2]ため、甘羅もそこに連なる人物の可能性がある。 12歳で秦の相国である呂不韋に仕え[3]、他国との外交で秦王の覇業に寄与した。

生涯

張唐の説得と趙への使者

秦は剛成君蔡沢を燕に対する使者としとの同盟を画策する。3年後、燕は太子丹を人質として派遣した。

秦は張唐を燕の宰相として派遣しようとしたが、張唐は文信侯呂不韋の説得を拒絶し燕に行こうとしなかった。

しかし、呂不韋に仕えていた甘羅の説得により意を翻し、燕に行く準備をした[4][5][6][7]

だが、こののち甘羅がにおもむいて秦趙間の同盟を取り計らい、趙と燕とを戦わせる工作を行ったため趙は秦に5城を割譲し、秦は燕に太子を帰し、趙は燕を攻撃して30城あまりを奪い、秦は趙の割譲した5城に加えて燕の11城を得た[8][9][10][11]。この功績で甘羅は12歳にして上卿となり祖父の甘茂の田宅を賜った[12]

墓所

安徽省阜陽市潁上県の東25キロ(楊湖鎮甘羅郷)の潁河の北岸にあり、潁上八景の一つである。明朝万暦年間、潁上知県の何豸により墓碑が建立された。その後河川の氾濫の影響などで墓は崩壊し河岸が破壊され水没するに至ったが、清朝光緒15年(1889年)に安徽省の総督である陳毅は、元の位置から北に70メートルの場所に土を盛り墓を築き、その前に秦上卿甘羅碑を建てた。民国11年(1922年)と民国22年(1933年)には当時の潁上県長である黄佩蘭と張鼎家がそれぞれ記念碑を建立している[13]

脚注

  1. ^ 潁上県人民政府網より
  2. ^ 晋書』巻70 列伝第40甘卓伝より(原文「甘卓字季思,丹陽人,秦丞相茂之後也。曾祖寧,為呉将。」)
  3. ^ 『史記』巻七十一・樗里子甘茂列伝第十一:甘羅者、甘茂孫也。茂既死後、甘羅年十二,事秦相文信侯呂不韋。
  4. ^ 『史記』巻七十一・樗里子甘茂列伝第十一:秦始皇帝使剛成君蔡澤於燕,三年而燕王喜使太子丹入質於秦。秦使張唐往相燕,欲与燕共伐趙以廣河間之地。張唐謂文信侯曰:“臣嘗為秦昭王伐趙,曰:“得唐者与百里之地。”今之燕必経趙,臣不可以行。”文信侯不快,未有以強也。甘羅曰:“君侯何不快之甚也?”文信侯曰:“剛成君蔡澤事燕三年,燕太子丹已入質矣,吾自請張卿相燕而不肯行。”甘羅曰:“臣請行之。”文信侯叱曰:“去!我身自請之而不肯,汝焉能行之?”甘羅曰:“大項橐生七歳為孔子師。今臣生十二歳於茲矣,君其試臣,何遽叱乎?”
  5. ^ 『戦国策』巻七・秦策五:文信侯欲攻趙以廣河間,使剛成君蔡澤事燕,三年,而燕太子質於秦。文信侯因請張唐相燕,欲与燕共伐趙,以廣河間之地。張唐辞曰:“燕者必径於趙,趙人得唐者,受百里之地。”文信侯去而不快。少庶子甘羅曰:“君侯何不快甚也?”文信侯曰:“吾令剛成君蔡澤事燕,三年,而燕太子已入質矣。今吾請張卿相燕,而不肯行。”甘羅曰:“臣行之。”文信君叱去曰:“我自行之而不肯,汝安能行之也?”甘羅曰:“夫項橐生七歳而為孔子師,今臣生十二歳於茲矣!君其試臣,奚以遽言叱也?”
  6. ^ 『史記』巻七十一・樗里子甘茂列伝第十一:於是甘羅見張卿曰:“卿之功孰興武安君?”卿曰:“武安君南挫強楚,北威燕・趙,戦勝攻取,破城堕邑,不知其数,臣之功不如也。”甘羅曰:“應侯之用於秦也,孰興文信侯専?”張卿曰:“應侯不如文信侯専。”甘羅曰:“卿明知其不如文信侯専興?”曰:“知之。”甘羅曰:“應侯欲攻趙,武安君難之,去咸陽七里而立死於杜郵。今文信侯自請卿相燕而不肯行,臣不知卿所死処矣。”張唐曰:“請因孺子行。”令装治行。
  7. ^ 『戦国策』巻七・秦策五:甘羅見張唐曰:“卿之功孰與武安君?”唐曰:“武安君戦勝攻取不知其数,攻城堕邑不知其数;臣之功不如武安君也。”甘羅曰:“卿明知功之不如武安君歟?”曰:“知之。”“應侯之用秦也孰與文信侯専?”曰:“應侯不如文信侯専。”曰:“卿明知為不如文信侯専歟?”曰:“知之。”甘羅曰:“應侯欲伐趙,武安君難之,去咸陽七里,絞而殺之。今文信侯自請卿相燕,而卿不肯行,臣不知卿所死之処矣!”唐曰:“請因孺子而行!”令庫具車,厩具馬,府具幣。行有日矣。
  8. ^ 『戦国策』巻七・秦策五:甘羅謂文信侯曰:“借臣車五乗,請為張唐先報趙。”
  9. ^ 『史記』巻七十一・樗里子甘茂列伝第十一:行有日,甘羅謂文信侯曰:“借臣車五乗,請為張唐先報趙。”文信侯乃入言之於始皇曰:“昔甘茂之孫甘羅,年少耳,然名家之子孫,諸侯皆聞之。今者張唐欲稱疾不肯行,甘羅説而行之。今願先報趙,請許遣之。”始皇召見,使甘羅於趙。
  10. ^ 『史記』巻七十一・樗里子甘茂列伝第十一:趙襄王郊迎甘羅。甘羅説趙王曰:“王聞燕太子丹入質秦歟?”曰:“聞之。”曰:“聞張唐相燕歟?”曰:“聞之。”“燕太子丹入秦者,燕不欺秦也。張唐相燕者,秦不欺燕也。燕・秦不相欺者,伐趙,危矣。燕・秦不相欺無異故,欲攻趙而廣河間。王不如齎臣五城以廣河間,請帰燕太子,与強趙攻弱燕。”趙王立自割五城以廣河間。秦帰燕太子。趙攻燕,得上谷三十城,令秦有十一。
  11. ^ 『戦国策』巻七・秦策五:見趙王,趙王郊迎。謂趙王曰:“聞燕太子丹之入秦歟?”曰:“聞之。”“聞張唐之相燕歟?”曰:“聞之。”“燕太子入秦者,燕不欺秦也;張唐相燕者,秦不欺燕也。秦・燕不相欺,則伐趙危矣。燕・秦所以不相欺者,無異故,欲攻趙而廣河間也。今王齎臣五城以廣河間,請帰燕太子,与強趙攻弱燕。”趙王立割五城以廣河間,帰燕太子。趙攻燕,得上谷三十六県,与秦什一。
  12. ^ 『史記』巻七十一・樗里子甘茂列伝第十一:甘羅還報秦,乃封甘羅以為上卿、復以始甘茂田宅賜之。
  13. ^ 潁上境内的主要古墓葬、安徽文化網

参考文献


甘羅(かん ら)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 00:42 UTC 版)

達人伝-9万里を風に乗り-」の記事における「甘羅(かん ら)」の解説

かつて秦の宰相つとめた甘茂の孫。齢12ありながら呂不韋の上客として遇される

※この「甘羅(かん ら)」の解説は、「達人伝-9万里を風に乗り-」の解説の一部です。
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