燕太子丹とは? わかりやすく解説

燕太子丹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/26 14:30 UTC 版)

太子丹

燕太子丹(えん の たいし たん、? - 紀元前226年)は、古代中国の戦国時代末期の太子。姓はまたは[1]燕王喜の子。荊軻刺客として秦王政(後の始皇帝)に差し向け、暗殺を図ったことで知られる(始皇帝の暗殺未遂)。

生涯

少年時代は、に人質として送られ、同じく人質だった公子の政(後の秦王政)と親しくしていたことがある。後に本国に帰国して、燕の太子となった。

見陵之辱

燕王喜23年(紀元前232年)、秦王政は蔡沢を燕に遣わし、3年かけて両国で盟約が結ばれると丹は秦に人質として送られた。しかし、秦王政は丹を冷遇したため、これに恨みを抱いて秦から逃亡して帰国した。帰国後、秦王政に報復する方法を探したが、燕の国力ではどうすることもできなかった。

その後、秦は領土を拡大し、国境が燕にまで迫ろうとしていた。秦の脅威を危惧した丹は、太傅鞠武中国語版へ如何にすべきか相談したところ、鞠武は「秦は三晋(趙・)を脅かし、北に甘泉谷口が天然の要害となり、南に涇水渭水に沿った肥沃な大地を有する。豊かな漢中を独占し、右はの山脈、左は函谷関崤山に守られている。人口は多く、また兵士も勇猛で、武器防具も満たされている」と評し、秦と争うことの愚を献策したものの、丹は聞き入れなかった。

樊於期を庇護する

しばらくして秦の将軍である樊於期が秦王政の怒りを買って罪に問われ[2]、燕に亡命してきた。丹がこれを受け入れたのに対し、鞠武は「樊於期を匿うことは『飢えた虎が通る道に肉を置く』ようなもの。樊於期を匈奴へと追放した上で、三晋と同盟を結び、と連携し、単于と講和を結んでようやく秦に対抗できる」と進言した。しかし丹は「太傅の計略は日をむなしく費やすだけ」と聞き入れず、樊於期についてもその窮状に同情していた丹は、「憐れむべき友を捨てる時が丹の命が尽きる時」と言って退けた。

荊軻に託す

その後、鞠武から知恵者と名高い処士田光中国語版の紹介を受け、丹は秦への対応策を相談したところ、田光より荊軻を頼るように助言を受けた。丹は帰り際、田光へ「話した内容は他言無用」と付け加えたことに対し、荊軻へ丹からの用向きを伝えた田光は「人に疑われるようでは節義ある俠客ではない。田光は既に死んだので約束は守られたと太子様に伝えてくれ」と荊軻を激励して自刎した。これを荊軻より聞いた丹は跪いて涙を流し、「丹が田光に他言無用と告げたのは、大事を成し遂げるためであって、田光は死をもってその誓いを守った。これがどうして丹の本意であろうか」と嘆いた。

丹は荊軻に、「既に韓を滅ぼした秦は、趙を滅ぼさんと攻めている。次に秦に攻められる燕に抗う力はない。諸侯はみな秦を恐れ、誰一人として合従して秦に対抗する者はいない。そこで丹は愚かな一計を案じた。もし天下の勇士を得て、秦に使者として遣わし、大利をもって秦王を誘えば、貪欲な秦王は必ず乗ってきて望む状況を作ることができるだろうと。すなわち、秦王を生け捕りにし、諸侯から奪った地のことごとくを返還させる、それが叶わなければそのまま殺す。そうすれば秦では内乱が起き、その隙に諸侯が合従すれば必ず秦を破ることができる。これが丹の最上の願いであり、どうか荊卿(荊軻)に託したい」と腹の内を明かした。荊軻はその未曽有の計画に一度は降りようとしたが、丹の意志が固いことを悟ると承諾した。丹は荊軻を上卿として遇し、与えた上等な館に毎日赴いて美食・珍品・車馬・美女を荊軻の欲するままに贈った。『燕丹子』によるとその礼遇は破格のものであり、あるとき、丹と荊軻は東宮の池で遊んでいたが、丹は荊軻が瓦を拾って蛙に投げるのを見ると丸い金塊を荊軻に捧げた。また二人で千里馬に乗っていた時、荊軻が「千里馬の肝は美味そうだ」と言うと、丹は馬を殺して肝を捧げた。丹と樊於期が華陽台で酒宴を設けた時には、荊軻が琴を弾くのに長けた美女を見て「好い手だ」と言ったので、丹はその美女の手を切断して玉の皿に盛って荊軻に捧げた。

荊軻刺秦

燕王喜27年(紀元前228年)、荊軻は未だに出立の決意を固めず、その間に秦は趙を滅ぼすと、燕を攻めるために秦の王翦が燕の南境の中山に駐屯した。丹は慌てて荊軻に決行を促すと、荊軻は秦王政に謁見するために燕の督亢(現在の河北省保定市高碑店市を中心とする広い地域)の地図と秦から多額の懸賞をかけられている樊於期の首級を求めた。しかし丹は私心で樊於期を殺すことはできないと拒否したため、丹の心情を察した荊軻は密かに樊於期に会い、「秦王を殺すために将軍の首を頂戴したい。これで将軍は仇を討つことができ、燕(丹)が受けた屈辱も除かれる」と決断を迫った。樊於期は感謝を告げて応じると自刃してその首を荊軻に託した。これを聞いて駆けつけた丹は樊於期の亡骸を抱いて嘆き悲しんだ。

燕王喜28年(紀元前227年)、丹は天下に比類なき匕首を求め、趙の名工徐夫人中国語版の匕首を百金で手に入れた。さらに工匠に命じて毒薬を塗布させ、試したところ僅かに刺しただけで人が即死するほどの威力であったという。これを荊軻に託し、燕将秦開の孫の秦舞陽を同行させた。荊軻はさらに別の同志を待っていたが到着せず、出発を遅らせていた。丹が心変わりを疑うと、荊軻は怒り、ついに決行を宣言した。

荊軻の出立に際し、丹および事情を知る者たちはみな白衣白冠(喪服)を身に纏って送別に列し、易水のほとりで道祖神の儀を開いた。高漸離を奏で、荊軻が和して歌うと、壮士たちは皆涙を流した。荊軻はついに車に乗り込み、振り返ることなく秦へ向かった。

こうして両者は咸陽宮で秦王政に相まみえたが、秦舞陽は震えるばかりで使い物にならず、荊軻は失敗して殺された。

最期

秦王政は激怒し、事件の首謀者である丹を追討するため、王翦と辛勝に命じて燕を攻めた。燕は趙の亡命国家のと連合して戦うも易水の西で敗れた。

燕王喜29年(紀元前226年)、秦は王翦の軍に大幅に増派し、丹は軍を率いてこれを迎え撃ったが敗れ、燕の国都が陥落した。丹と燕王喜は残る精鋭を全て率いて東方の遼東に向かっていたが、丹は秦将李信に追撃され、衍水に身を隠した。遼東に逃げ延びた燕王喜は代王嘉からの勧めを受けて衍水にいた丹に使者を送って殺害し、その首を秦に奉じたことで秦の攻勢は一時的に収まった。しかし、4年後の燕王喜33年(紀元前222年)に秦の王賁が遼東を攻め、燕王喜が捕らえられて燕は滅亡した(燕攻略)。

丹の最期については司馬遷史記』の中で3つの異なる記述が存在し、上記は刺客列伝及び燕召公世家に基づく[3]。同書、秦始皇本紀では薊が陥落した時に丹は殺されたとしており[4]、王翦列伝では李信が数千の兵を率いて衍水まで丹は追い詰めて捕らえたと記されている[5]

逸話

烏頭白くして馬角を生ず

「烏頭白くして馬角を生ず」は、著者不明の小説『燕丹子』に記述されている太子丹に関する故事に由来する成語で、この成語の意味は「絶対に起こり得ないことのたとえ」である。

丹が秦に囚われていた際、秦王政が「烏頭白、馬生角(頭の白いカラスと角が生えた馬)」が現れたら帰国を許すという無理な条件を突きつけたことに由来する。なお、後にそのような異象が本当に現れたため、秦王は約束を履行せざるを得なくなって丹を帰したことも記されている。また、『史記』において司馬遷は、「世が荊軻のことを語る際、太子丹の命令を受けて荊軻が行ったことは『天が粟を降らせ、馬に角が生える(天雨粟、馬生角)』ようなことだ」と称えるのはいささか誇張であるとも評している。よって『燕丹子』のこの逸話は『史記』から着想を得たものだと思われるが、その逆の可能性もある。

白虹日を貫く

「白虹日を貫く」は、『史記』魯仲連鄒陽列伝に記述されている太子丹に関する故事に由来する成語である。白虹とはのことであり、異常な天文現象を表す。白虹は「兵」、日は「君主」を指し、古代中国ではこのような天象を君主が危機に遭う兆しや英雄の精誠が天に感応した証として解釈した。

史記集解』が引くところの『烈士伝』によると、荊軻が出発した後、丹は気を整え、空を見上げたところ白虹が現れたが太陽を貫かなかったため、「我が事、成らず」と悟ったという。その後、荊軻の死と計画が失敗したことを伝えられると、「知っていた」と言ったという。

太子河

太子丹の死後、後世の人々は彼を記念して、丹がかつて身を隠した衍水を「太子河」と改名した。

脚注

  1. ^ 史記』燕世家では周王朝と同姓の「姫姓」としているが、殷墟から発掘された『卜辞』および『史記索隠』が引く『竹書紀年』よれば、姓は姞姓である。
  2. ^ 秦王政の怒りを買った理由は史書に記載がなく不明である。
  3. ^ 『史記』刺客列伝
  4. ^ 『史記』秦始皇本紀
  5. ^ 『史記』白起王翦列伝

参考文献





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