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燕攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/06 14:31 UTC 版)

燕・代攻略
戦争:秦の統一戦争
年月日紀元前227年-紀元前222年
場所:中国
結果:燕・代の滅亡
交戦勢力

指導者・指揮官
王翦
辛勝
李信
王賁
燕王喜
燕太子丹 
代王嘉
秦の統一戦争

燕・代攻略戦(えん・だいこうりゃくせん)は、秦の統一戦争の一部でを滅ぼすまでの戦い。

秦王政の暗殺未遂

攻略戦

紀元前227年、秦王政は燕の太子丹による暗殺未遂に激怒し、軍勢を趙方面に進軍させ、中山で駐屯していた王翦と辛勝に燕を攻めさせた。燕は趙の亡命国家のと連合し、これを迎え撃った。秦軍は易水の西で連合軍を破った[1][2]

紀元前226年、秦の将軍王賁は燕の国都を攻めた[注 1]。秦はさらに兵を増派して王翦の軍に合流させた。秦軍は丹率いる燕軍を破り、10月に薊を攻め落とした[3][4]

『史記』秦始皇本紀では、薊が陥落した時に丹は討ち取られたとされている[4]。同書、白起王翦列伝では、李信は数千の兵を率いて燕軍を破り、衍水で丹を捕らえたとされている[5]

同書、刺客列伝・燕召公世家では、薊陥落後、燕王喜と丹は精鋭軍を率いて東方の遼東へ向かったが、秦将李信が奮迅の勢いで追撃し、丹は衍水の中に身を隠して難を逃れた[6]。遼東に逃げ延びた燕王喜は、代王嘉の「太子丹の首を秦王に献じれば国は存続し得る」という書簡に従い、使者を送って衍水に潜んでいた丹を斬首し、秦に献上した[6][7]。結果、秦と燕は一時的に停戦したと思われる。

紀元前222年、王賁は遼東を攻め、燕軍を破って燕王喜を捕らえ、燕を滅ぼした。同年、王賁は代軍を破って代王嘉を捕らえ、代を滅ぼした[8][9]

脚注

注釈

  1. ^ 史記』秦始皇本紀の「王賁攻薊」の記述に基づくが、『史記三家註』、梁玉縄の『史記志疑』などは、「王賁攻荊(荊は楚の別称)」の誤記としており、『史記』六国年表、王翦列伝ではいずれも王賁の楚攻めのみ記されている

出典

  1. ^ 史記・巻六・秦始皇本紀第六》秦王覺之,體解軻以徇,而使王翦、辛勝攻燕。燕、代發兵擊秦軍,秦軍破燕易水之西。
  2. ^ 史記・巻八十六・刺客列傳第二十六》於是秦王大怒,益發兵詣趙,詔王翦軍以伐燕。
  3. ^ 史記・巻八十六・刺客列傳第二十六》十月而拔薊城。
  4. ^ a b 史記・巻六・秦始皇本紀第六》二十一年,王賁攻薊。乃益發卒詣王翦軍,遂破燕太子軍,取燕薊城,得太子丹之首。
  5. ^ 史記・巻七十三・白起王翦列傳第十三》秦將李信者,年少壯勇,嘗以兵數千逐燕太子丹至於衍水中,卒破得丹,始皇以為賢勇。
  6. ^ a b 史記・巻八十六・刺客列傳第二十六》燕王喜、太子丹等盡率其精兵東保於遼東。秦將李信追擊燕王急,代王嘉乃遺燕王喜書曰:「秦所以尤追燕急者,以太子丹故也。今王誠殺丹獻之秦王,秦王必解,而社稷幸得血食。」其後李信追丹,丹匿衍水中,燕王乃使使斬太子丹,欲獻之秦。
  7. ^ 史記・巻三十四・燕召公世家第四》二十九年,秦攻拔我薊,燕王亡,徙居遼東,斬丹以獻秦。
  8. ^ 史記・巻三十四・燕召公世家第四》三十三年,秦拔遼東,虜燕王喜,卒滅燕。是歲,秦將王賁亦虜代王嘉。
  9. ^ 史記・巻十五・六國年表第三》二十五。王賁擊燕,虜王喜。又擊得代王嘉。五月,天下大酺



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