城父の戦い
城父の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:21 UTC 版)
同年、秦は魏を滅ぼし、次の標的を楚とした。秦王政は楚攻略に必要な兵数を訊くと李信は20万と答えた。同じ質問を老将の王翦に訊くと60万と答えた。すると政は「王将軍(王翦)も年をとったな。戦場が恐ろしくなったのか。李将軍(李信)は果断勇壮だ。李将軍の言葉に間違いは無い」と言い、20万の兵で楚に侵攻した。意見を取り上げてもらえなかった王翦は病気と称し故郷に引きこもった。また政を諫めた右丞相の昌平君も失脚した。 李信・蒙恬に10万人ずつの兵を託し楚の討伐に向かわせた。李信は平輿から、蒙恬は寝丘から攻め入り、寝丘の北の城父で合流する予定だった。両軍は勝利を重ねていて、特に李信は快進撃していた。しかし、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の昌平君を配した楚の旧都郢・陳で起きた反乱や項燕の奇襲により大敗し2つの土城と7人の部隊長を失った。そのため王翦のいる頻陽に秦王政自ら向かい詫びを入れた。
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