幽繆王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/10 21:08 UTC 版)
幽繆王 趙遷 | |
---|---|
趙 | |
第5代王 | |
王朝 | 趙 |
在位期間 | 前235年 - 前228年 |
都城 | 邯鄲 |
姓・諱 | 趙遷 |
諡号 | 幽繆王 |
父 | 悼襄王 |
母 | 悼倡后 |
幽繆王(ゆうぼくおう、幽穆王、生没年不明)は、中国戦国時代の趙の第10代君主(在位:紀元前235年 - 紀元前228年)。王としては5代目。姓は嬴、氏は趙、諱は遷。悼襄王の子。
生涯
悼襄王と悼倡后のあいだに生まれた。当初、異母兄で嫡長子の嘉(代王嘉)が太子であったが、悼倡后は密かに嘉の事を悼襄王に讒言し、人を使って嘉を罪に陥れた。悼襄王は嘉を廃し、遷(幽繆王)を太子とした[1][2]。
悼襄王9年(紀元前236年)、悼襄王が逝去し、趙王に即位した[1]。
幽繆王2年(紀元前234年)、秦の将軍桓齮は平陽(現在の河北省邯鄲市臨漳県西部)と武城(現在の山東省徳州市武城県西部)を攻め、趙の将軍扈輒を討ち、10万の首級を挙げた[1][3][4]。
幽繆王3年(紀元前233年)、桓齮は再び出兵し、宜安・平陽・武城の3城を取り、趙軍を破ってその将を討ち取った[4]。幽繆王は李牧を大将軍に任じた[3]。
同年、李牧は秦軍を肥(肥下とも)で破り、桓齮を敗走させた(『戦国策』によると討ち取った[5])[3]。この功により、幽繆王は李牧を武安君に封じた[1]。
幽繆王4年(紀元前232年)、秦は軍を分けて趙を攻めたが、李牧はまず北方の番吾で秦軍を再び撃破した[1]。続いて南下し元の韓・魏の地から侵攻して来た秦軍も破った。もしくは秦の勢力を韓・魏の国境まで押し返した[3]。
幽繆王5年(紀元前231年)、代の地で大地震が発生した。楽徐の西から北は平陰に至る広範囲が被災し、家屋や牆壁の大半が壊れ、地割れが生じて東西の幅は百三十歩に及んだ[1]。
幽繆王6年(紀元前230年)、趙で大飢饉が発生した[1]。民は口々に、「趙は号泣し、秦は笑う。信じられないなら、地面に生える毛を見よ[注 1]」と言った[1]。
幽繆王7年(紀元前229年)、秦の王翦が大軍を以て趙を攻めたため、幽繆王は李牧と司馬尚に応戦させた。苦戦した秦は李牧を排除すべく、幽繆王の寵臣郭開に多額の賄賂を贈って、「李牧と司馬尚が謀反を企んでいる」と幽繆王に讒言させた[3]。また、太后の悼倡后も秦から賄賂を受け取り、幽繆王に讒言をした[2]。幽繆王は讒言を信じ、李牧を誅殺し、司馬尚を罷免した[1][3][5]。その後、趙葱と斉将顔聚がその地位に代わった[1]。
幽繆王8年(紀元前228年)[注 2]、李牧誅殺の3カ月後、趙葱率いる趙軍は王翦に大敗し、大勢の趙兵が戦死した[1][5]。趙葱は戦死し、顔聚は逃亡した[1]。
同年10月、趙の国都邯鄲が秦軍に占領された[1][6]。このとき、幽繆王は秦軍に捕らえられた[6]。また、幽繆王と共に顔聚も共に捕虜になったとされる[1][5]。『史記』秦始皇本紀では、幽繆王は東陽(太行山脈以東、泜水から漳水上流の一帯など諸説ある)へ逃れたが、王翦・羌瘣にその地を平定され、捕らえられたと記されている[4](趙攻略)。
趙は滅亡し、幽繆王は房陵に流された[7]。兄の嘉は一族数百人を率いて北方の代に逃れ、そこで自立して代王を名乗り、趙の亡命政権である代を建てた[4]。
人物
幽繆王は暗愚な王であった。司馬遷は『史記』趙世家において、「遷(幽繆王)は素行が悪く、讒言を信じた。それゆえ、良将の李牧を誅殺し、郭開を用いた」と記している[1]。『戦国策』においても秦から趙に逃れて仮の宰相となった呂不韋の食客・司空馬の献策を容れず、韓倉という側近の讒言で李牧を誅殺して国を滅ぼす原因となり、平原津の長官の郭遺は「趙が滅んだのは国内に賢者がいても王に賢者を活かす能力が無かった」と評したことが記されている[8]。
幽繆王は房陵に流された後、望郷の思いから『山水』という題の詩歌を創作した。聞いた者はみな涙を流さずにはいられなかったという[7]。
『史記集解』には「年表及び史考において趙遷には諡はない」とあり、『史記索隠』においても「徐広は『王遷には諡はない』と言う」とある。秦に滅ぼされた他五国の王の諡号は伝わってないことからして、今日知られる幽繆王という諡号は、「死後に国家ではなく個人が密かに追贈したものであり、司馬遷はそれを記録した、あるいは別の考えに基づいて記したのかもしれない」と徐広は推察している。
脚注
注釈
出典
史料
|
|
|
固有名詞の分類
- 幽繆王のページへのリンク