趙攻略戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:21 UTC 版)
紀元前229年、秦の王翦・楊端和・羌瘣が趙の旱魃や地震災害につけこみ、大軍を以て趙を攻め、王翦が井陘を降した。そのため、趙は李牧と司馬尚(司馬卬の父)に応戦させた。苦戦した秦は李牧を排除するため、幽繆王の奸臣郭開に賄賂を送り、趙王と李牧との離間を画策した。郭開は趙王に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言した。 趙の軍事を掌握し功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王はこれを疑い、郭開の言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした。だが、李牧は王命を拒んだため、幽繆王によって密かに捕らえられて誅殺され、司馬尚も解任・更迭された。 李牧の死後、趙軍は趙葱と斉将顔聚が指揮を執る事になったが、彼らは間もなく王翦に大敗し、趙葱は戦死し、大勢の趙兵が殺害された。 紀元前228年、国都邯鄲が落ちた。幽繆王と顔聚が捕虜となり趙は滅亡した。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で幽繆王の兄の趙公子嘉を擁立し代国とした。秦王政は生まれた地である邯鄲に入り、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。
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