趙攻略とは? わかりやすく解説

趙攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/30 04:44 UTC 版)

趙攻略戦
戦争秦の統一戦争
年月日紀元前236年~紀元前228年
場所:中国
結果の滅亡
交戦勢力
指導者・指揮官
王翦
桓齮 ?
楊端和
羌瘣
李信
幽繆王(捕虜)
扈輒 
李牧 
司馬尚
趙葱 
顔聚(捕虜)
秦の統一戦争

趙攻略戦(ちょうこうりゃくせん)は、秦の統一戦争の一部でを滅ぼすまでの戦い。

攻略戦

鄴の戦い

紀元前236年、趙の将軍の龐煖に侵攻し[1]、国内が手薄になっている隙を突き、秦軍は趙へ侵攻した。総大将王翦[2]副将桓齮、末将は楊端和である[3][4]

まず、秦軍は鄴の周辺の9城を落とした[3][4]。王翦は閼与轑陽を攻め、それから全ての兵を併せて一軍とした[3][4]。18日後、王翦は兵糧の問題上、軍を10分の2にした精鋭部隊を率い、安陽を攻め落とした[4][5]

平陽の戦い

紀元前234年、桓齮は趙の平陽武城を攻めた。趙の将軍の扈輒が軍を率いて救援に向かったが大敗し、武遂で討ち取られた。秦軍は10万の首級を挙げた[6][7][8][9]

紀元前233年、桓齮は東の上党に進軍し、太行山脈を越えて趙の深部に侵入し、赤麗宜安を攻めた。桓齮は平陽で趙軍を攻撃し、これを破って宜安を奪取して、その将軍を討ち取った。桓齮は平陽と武城を平定した[7][10][11]

肥下の戦い

同年、趙は李牧を大将軍に任じた。李牧率いる趙軍と桓齮率いる秦軍は宜安付近で対峙した。激しい戦いの末に(肥下とも)で秦軍は大敗し、桓齮は敗走した[8][12][11]。また、『戦国策』によると桓齮は討ち死にしたとある[13][14]。この功により李牧は武安君に封じられた[15][8][16]

番吾の戦い

紀元前232年、秦は大規模な兵を動員し、軍を二つに分けて趙に侵攻した。一軍は鄴に到着し、もう一軍は太原に到着し、太原の軍は狼孟を占領した[17]。秦は番吾を攻めたが、李牧はこれを撃退し、秦軍を南のの国境まで追いやった[11][12][18][19]

邯鄲攻略

李牧(清人絵)。秦の侵攻を撃退したのは楚の項燕と李牧の二人のみ。

紀元前229年、秦は大規模な兵を動員し、趙に侵攻した。旱魃地震災害[20][21]につけこむ形での侵攻であった。王翦は上地(上郡、現在の陝西省北部)の兵を率いて太行山脈の井陘を抜き、楊端和は河内(現在の河南省新郷市一帯)の兵を率いて進軍し、二方面から趙の国都邯鄲を攻めた。羌瘣も将として趙軍を攻撃し、楊端和が邯鄲を包囲したが、李牧と司馬尚がこれを防いだ[19][22]。『史記刺客列伝によると王翦が数十万の兵を率いて・鄴に布陣した時、李信が太原・雲中に出征していたとされる[23]

苦戦した秦は、幽繆王の寵臣の郭開、趙の太后悼倡后に賄賂を渡して反間計を仕掛けた。「李牧と司馬尚が反逆を企んでいる」という郭開の讒言を幽繆王は聞き入れ、李牧を解任し、趙葱との将軍顔聚に指揮を執らせるよう命じた。李牧はこの命令を受け入れなかったため、密かに捕らえられて斬首され、司馬尚も罷免された[19][24][25]

紀元前228年、李牧処刑の三か月後、王翦は趙軍を急襲して大いに破り、趙葱を討ち取った。王翦と羌瘣は趙の東陽(太行山脈以東、泜水から漳水上流の一帯など諸説ある)の地を全て平定し、幽繆王を捕らえ、趙を滅ぼした[19][22]。『史記』趙世家では前年に趙葱が敗れ、顔聚は逃げ去ったため、幽繆王は降伏したとなっており、紀元前228年10月に秦軍が邯鄲を占領したとある[26][注 1]

自らが誕生した地である邯鄲に入った秦王政は、かつて自分が邯鄲に人質としていた時に母の趙姫の実家と仇怨があったもの者たち全てを坑殺して秦へ戻った[19][22][27]

戦後

幽繆王の兄の公子嘉は一族数百人を率いて北方のに逃れ、そこで自立して代王を名乗り、代国を建てた[22][24][28][27]と連合して秦に対抗したが、紀元前222年に秦の王賁によって代王嘉は捕虜とされ、滅亡した[22][29]

脚注

注釈

  1. ^ 当時使用されていた暦法では10月が年始である。よって幽繆王の降伏と邯鄲陥落は年末年始のほぼ同時期の出来事であると考えられる。

出典

  1. ^ 史記 巻四十三 趙世家》:九年,趙攻燕,取貍、陽城。兵未罷,秦攻鄴,拔之。
  2. ^ 史記 巻七十三 白起王翦列傳》:始皇十一年,翦將攻趙閼與,破之,拔九城。
  3. ^ a b c 島崎晋 2019, p. 80.
  4. ^ a b c d 史記 巻六 秦始皇本紀》:十一年,王翦、桓齮、楊端和攻鄴,取九城。王翦攻閼與、轑陽,皆併為一軍。翦將十八日,軍歸斗食以下,什推二人從軍取鄴安陽,桓齮將。
  5. ^ (中国語) 秦滅趙之戦 [Qin's conquest of Zhao] (wiki), Hudong Baike, http://www.hudong.com/wiki/秦灭赵之战 
  6. ^ 史記 巻六 秦始皇本紀》:十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙將扈輒,斬首十萬。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。
  7. ^ a b 史記 巻四十三 趙世家》:二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻赤麗、宜安...
  8. ^ a b c 史記 巻八十一 廉頗藺相如列傳》:後七年,秦破殺趙將扈輒於武遂,斬首十萬。趙乃以李牧為大將軍,撃秦軍於宜安,大破秦軍,走秦將桓齮。封李牧為武安君。
  9. ^ 島崎晋 2019, p. 88.
  10. ^ 史記 巻六 秦始皇本紀》:十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,破之,殺其將軍。桓齮定平陽、武城。
  11. ^ a b c 島崎晋 2019, p. 89.
  12. ^ a b 島崎晋 2019, p. 11.
  13. ^ 戦国策 巻二十一 趙策四
  14. ^ 島崎晋 2019, p. 6.
  15. ^ 資治通鑑 巻六 秦紀一》:桓齮伐趙,敗趙將扈輒於平陽,斬首十萬,殺扈輒。 〔冬,十月,桓齮復伐趙〕桓齮伐趙,〔殺其趙將〕,取宜安、平陽、武城。〔趙王以李牧為大將軍,戰於宜安、肥下,秦師敗績,桓齮奔還。趙封李牧為武安君〕。
  16. ^ 史記 巻四十三 趙世家》:二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻 赤麗、宜安,李牧率師與戰肥下,卻之。封牧為武安君。
  17. ^ 史記 巻六 秦始皇本紀》:十五年,大興兵,一軍至鄴,一軍至太原,取狼孟。地動。
  18. ^ 史記 巻四十三 趙世家》:四年,秦攻番吾,李牧與之戰,卻之。
  19. ^ a b c d e 史記 巻八十一 廉頗藺相如列傳
  20. ^ Hk.chiculture.net. "HKChinese culture." 破趙逼燕. Retrieved on 2009-01-18.
  21. ^ Haw, Stephen G. (2007). Beijing a Concise History. Routledge. ISBN 978041539906-7. p 22 -23.
  22. ^ a b c d e 『史記』秦始皇本紀”. ja.wikisource.org. 2025年9月4日閲覧。
  23. ^ 『史記』刺客列伝”. ja.wikisource.org. 2025年9月4日閲覧。 “王翦將數十萬之眾距漳、鄴,而李信出太原、雲中。”
  24. ^ a b 秦滅韓和破趙”. 中華文化信息网. 2015年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月3日閲覧。
  25. ^ 劉向列女伝』孽嬖伝
  26. ^ 『史記』趙世家”. ja.wikisource.org. 2025年9月3日閲覧。
  27. ^ a b 吉川 (2002)、pp.88-94、第三章 統一への道‐六国併合‐2
  28. ^ Li & Zheng 2001, p. 184.
  29. ^ 『史記』燕召公世家”. ja.wikisource.org. 2025年9月3日閲覧。

趙攻略

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秦の統一戦争」の記事における「趙攻略」の解説

詳細は「趙攻略」を参照 紀元前229年、斉との連合情報漏れ旱魃地震災害つけこまれ、秦に侵攻された。王翦によって買収され悼襄王お気に入り重臣郭開讒言により秦軍撃退し続けた李牧殺された。また、司馬尚更迭された。幽繆王は趙(ちょうそう)・顔聚(がんしゅう)を率いて迎え撃ったが、敗れ戦死した紀元前228年国都邯鄲落ちた。趙幽繆王と顔聚が捕虜となり趙は滅亡した逃げ延びた趙の大夫らは代の地で趙幽繆王の兄の趙公子嘉を擁立し代国とした。生まれた邯鄲入った秦王政は、母の太后実家揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った

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