悼襄王とは? わかりやすく解説

悼襄王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/09 10:14 UTC 版)

悼襄王 趙偃
第4代王
王朝
在位期間 前244年 - 前236年
都城 邯鄲
姓・諱 趙偃
諡号 悼襄王
生年 不詳
没年 悼襄王9年(前236年
孝成王
后妃 悼倡后

悼襄王(とうじょうおう) は、中国戦国時代の第9代君主(在位:紀元前244年 - 紀元前236年)。王としては4代目。孝成王の子。

長年の功臣廉頗を年老いたとして退け、名将李牧や学人龐煖ら新しい将軍を起用した。治世には得失が有り、長平の戦いの大敗を起因とする趙の衰亡は止められなかった。

生涯

孝成王21年(紀元前245年)、孝成王は相国の信平君廉頗の繁陽を討たせ、占領に成功[1][2]。このとき、丁度、孝成王が薨去し、子の偃(悼襄王)が即位した[2]。悼襄王は将軍を武襄君楽乗に交代させたが、廉頗はこれを不満に思い、楽乗を攻撃し敗走させた後、魏に亡命した[1][2]。後年、悼襄王は廉頗を呼び戻そうとしたが、廉頗を嫌っていた郭開の謀略により沙汰止みになった[2]

悼襄王元年(紀元前244年)、魏に対し大いに備え、平邑中牟の道を通じようとしたが、成功せず[3]

悼襄王2年(紀元前243年)、孝成王の代に匈奴への守備隊長として名を馳せていた李牧[2]を将軍として起用し、を攻撃させ、武遂と方城を落とす[4][5](悼襄王元年説もある[2])。

同年、は趙の太子の春平君を招いたが、そのまま秦に留め置いた[5]。泄鈞という人物が、この事について秦の丞相の文信侯呂不韋に、「春平君は、趙王から寵愛を受けており、趙の郎中に妬まれていました。彼らは、『春平君が秦に入れば、秦は必ず彼を留めるだろう』と考え、共謀して春平君を秦に送り込んだのです。したがって春平君を留めるということは、趙との関係を断ち切り、郎中の思惑に乗ることになります。ここは春平君を返して、代わりに平都侯を留め置くのがよいでしょう。春平君は言動ともに趙王に信頼されているので、趙王は多くの土地を割いてでも平都侯を取り戻すでしょう」と進言した。呂不韋はこれを聞き入れ、春平君を趙へ帰した[4][6]

同年、韓皋の城市を築く[4]

悼襄王3年(紀元前242年)、武霊王の代から兵家縦横家として高名であった学者の龐煖(龐煥)[7]を将軍として起用、これを侮って攻めてきた燕軍の2万を伐ち、将軍劇辛を生け捕りにして殺す[5][8]

同年、趙の宰相と魏の宰相が柯で会見し、同盟を結ぶ[5](魯荘公と斉桓公の故事に因むか)。

悼襄王4年(紀元前241年)、龐煖を将軍として、趙・・魏・燕の四カ国の精兵を率いて秦の蕞を攻めさせたが、陥落させる事ができず、そのため兵を移してを討ち、饒安を取る[9]。なお、同年に楚の春申君も楚・趙・魏・・燕の合従軍を率いているが、函谷関で敗退している(函谷関の戦い[10]

悼襄王5年(紀元前240年)、傅抵を将軍に任じ、平邑に配置する[11]。また、慶舎を将軍として、東陽河外の軍を率いて、河梁を守らせる[11]

悼襄王6年(紀元前239年)、秦王政(後の始皇帝)の弟である長安君成蟜が趙に寝返ったため、饒に封じるが、成蟜は秦の攻撃を受けて屯留で戦死する[12][13]

同年、魏が趙にを譲渡する[13]

悼襄王8年(紀元前237年)、趙と斉の使者が秦を訪れ、酒宴を開く[5][14]

悼襄王9年(紀元前236年)、龐煖を将軍として燕を北伐し、貍・陽城などを取る[15][16]。しかし、その隙に秦の将軍王翦桓齮楊端和の攻撃を受け、鄴・閼与など九城を失う[5][15][17]。龐煖は趙を救わんとして南下するが時遅く、一帯を失う[16]

この年、悼襄王は薨逝した[15]。その後、廃嫡した子の公子嘉に代わって太子となっていたその弟の公子遷(幽繆王)が即位した[15]。幽繆王は暗愚な王であり、その代に趙は滅亡した[18]

脚注

  1. ^ a b 史記』「趙世家」孝成王二十一年
  2. ^ a b c d e f 『史記』「廉頗藺相如列伝」
  3. ^ 『史記』「趙世家」悼襄王元年
  4. ^ a b c 『史記』「趙世家」悼襄王二年
  5. ^ a b c d e f 『史記』「六国年表
  6. ^ 戦国策』「趙策」趙策四
  7. ^ 漢書』「芸文志」、『鶡冠子』「近迭」「世賢」「武霊王」
  8. ^ 『史記』「趙世家」悼襄王三年、「燕世家」今王喜十二年
  9. ^ 『史記』「趙世家」悼襄王四年
  10. ^ 『史記』「春申君列伝」
  11. ^ a b 『史記』「趙世家」悼襄王五年
  12. ^ 『史記』「秦始皇本紀」始皇八年
  13. ^ a b 『史記』「趙世家」悼襄王六年
  14. ^ 『史記』「秦始皇本紀」秦始皇十年
  15. ^ a b c d 『史記』「趙世家」悼襄王九年
  16. ^ a b 韓非子』「飾邪篇」
  17. ^ 『史記』「秦始皇本紀」秦始皇十一年
  18. ^ 『史記』「趙世家」幽繆王八年

関連項目

先代
孝成王
の君主
紀元前244年 - 紀元前236年
次代
幽繆王

悼襄王(とうじょうおう)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:00 UTC 版)

キングダムの登場人物一覧」の記事における「悼襄王(とうじょうおう)」の解説

第九代目趙国王。自分本位身勝手な人物病弱寿命長くないことを自覚しており、国の行く末については全く関心がない。李牧始め臣下からは失望されており、廉頗からは「先代上のバカ王」と酷評されている。泉殿という浴場でよく大勢童子達と湯治している。

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