四箇国を統帥する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 03:41 UTC 版)
はじめ将軍としては無名で侮られていた龐煖であるが、燕将劇辛を伐つなどして瞬く間に名声をあげ、戦国時代最後の合従軍(複数の大国による連合軍)の長も務めた。秦の名将王翦も彼との直接対決を避けており、理屈だけではない戦上手であったと思われる。 趙の悼襄王三年(紀元前242年)、燕を攻め、将軍の劇辛を捕虜とする。なお、『史記』「六国年表」「燕召公世家」では、旧友である劇辛の側が龐煖を侮って趙を攻めたことになっており、龐煖はこの戦いで劇辛を敗死させ、燕軍二万を捕虜にしている。 趙の悼襄王四年(紀元前241年)、趙・楚・魏・燕の四箇国の精兵を率いて秦の蕞を攻めたが、陥落させる事ができず、そのため兵を移して斉を討ち、饒安を取る。「六国年表」「楚世家」「春申君列伝」等によれば、同年に楚の春申君が五箇国の合従軍を率いるも函谷関で敗走しており、これと連携した動きだったと思われる。 趙の悼襄王九年(紀元前236年)、趙軍は燕を攻めて貍と陽城を取るも、その隙をついて秦の王翦・桓齮・楊端和が趙を攻め鄴や閼与などを落とす。『韓非子』飾邪篇によれば、この際、燕への遠征軍を指揮していたのは龐煖であり、秦軍侵入の報を受けると軍を移して南に急行するが、既に鄣(漳河一帯)は陥落した後であった。この年、悼襄王が崩御し、子の幽繆王が即位するが、幽繆王の代では用いられなかったらしく、以降、龐煖の活動の記録はない。
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