王翦とは? わかりやすく解説

王翦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/26 00:28 UTC 版)

王翦

将軍
出生 不詳
頻陽県東郷
死去 不詳
官位 中更→少上造
主君 嬴政(始皇帝
不明
不明
王賁
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王 翦(おう せん、生没年不詳)は、中国戦国時代の将軍。頻陽県東郷(現在の陝西省渭南市富平県の北東)の人。王賁の父。王離の祖父。秦王政(後の始皇帝)に仕えた戦国時代末期を代表する名将で、を滅ぼすなど、秦の天下統一に貢献した。白起廉頗李牧と並ぶ戦国四大名将の一人。

生涯

紀元前236年(始皇11年)、桓齮楊端和らと趙のを攻めて、先ず9城を取る。王翦は一人で閼与などを攻める。それから、皆兵をあわせて一軍とした。将軍になると18日間で軍中の斗食以下の功労のない者を帰らせ、軍をおよそ5分の1に減らし精鋭揃いに編成した。そして、それまで落とせなかった鄴などを落とす。

紀元前229年(始皇18年)、秦は王翦に大軍の指揮を執らせ、羌瘣楊端和とともに趙を攻めさせた。王翦は上郡地方の軍の将として、趙の井陘を降した。趙将李牧司馬尚が王翦の相手となったが、讒言によって李牧は誅殺、司馬尚は更迭された[1][2]。その後、趙葱と斉将顔聚が彼らの地位に代わった[1]

紀元前228年(始皇19年)、王翦は李牧誅殺の3か月後に趙葱・顔聚を破り[2]、趙都の邯鄲を陥落させた[3]。また、羌瘣とともに東陽を平定し、逃げていた趙の幽繆王を捕らえた[4]。しかし、趙の公子嘉が自立して代王になる。さらに兵を指揮してを攻めようとして中山(現在の山西省北部)に駐屯した。

紀元前227年(始皇20年)、辛勝とともに燕を攻めて、燕・代連合軍を易水の西で破った[4]

紀元前226年(始皇21年)、子の王賁とともに燕都のを攻め、燕の太子丹の軍を破って、薊を平定した[4]。このとき、太子丹の首を得た[4][5]。しかし、燕王喜は遼東に逃げて、なお命脈を保った。この年、老病の故をもって、将軍を辞して帰る。

紀元前224年(始皇23年)、秦王政より要請を受け、再び軍の将として、楚を攻めた。河南のから南の平輿までの地を占領して、楚王負芻を捕らえる。

紀元前223年(始皇24年)、蒙武と楚を攻める。楚王となっていた(楚の公子で、秦で呂不韋の補佐をしていた)昌平君は戦死し、将軍の項燕は自殺した。

紀元前222年(始皇25年)、秦は大いに兵を輿して、王翦と蒙武はついに楚の江南を平定する。また、東越の王を降して、ここに会稽郡を置いた。これらの功績により武成侯の称号を得る。翌年、秦はを滅亡させ、中華圏を統一する。

人物・逸話

秦王政の11年に初めて史書に登場し、同僚の楊端和らと共に鄴城を攻めて、さまざま奇計を用いてこれを陥落させている。これ以降、政に重用されていたが、老骨になってからはあまり重用されなくなった。

趙国を破った後、秦の覇業を妨げうるのは、もはや楚国のみとなった。その平定に当たり、政から諸将へ見通しを問われた際、王翦は「楚は広く兵員も多い。兵60万が必要でしょう」と慎重な意見を述べたが、政は若い将軍の李信の「兵20万で十分です」という積極的で勇猛に聞こえる意見を採用し、楚国への侵攻を任せた。ここで王翦は自ら引退を申し出て隠居する。しかし、楚へ侵攻した秦軍は、楚軍の奇襲を受けて大敗した。楚軍はその勢いのままに秦へ向けて進軍し、楚の平定どころか秦が滅亡しかねない程の危機となった。政は楚を破れるのは王翦しかいないと判断し、王翦の邸宅を自ら訪ねて将軍の任を与え、王翦が先に述べた通り60万の兵を委ねる。これは秦のほぼ全軍であり、反乱を起こすには十分過ぎる数だったため、臣下には疑いを抱く者も無数にいた。

王翦は、楚軍の迎撃に出るが、政自ら見送った出陣に際して、多くの美田・邸宅・園池を求めた。政は「将軍はこれから大功を立てに行くのに、何をそんなに求める必要があるのか」と返したが、王翦は「功績を立てても侯に封じられないかもしれない。今こうして大王が私に頼られているこの時に、子孫のために土地や財産を残しておきたいのです」と答え、政はこれを聞いて大笑し、改めて確約した。王翦はその席のみならず、行軍の途中ですら、勝利後の褒美は何がいいか、一族の今後の安泰は確かかなどを問う使者を政に逐一送った。部下から「求めがいささか過剰ではありませんか」と訊ねられた際、「そうではない。秦王は疑い深く、人を信じない。今、私は秦の全兵を指揮し、反乱を起こせば、たやすく秦を征し得る。秦王は自ら任せたものの、疑いが絶えないだろう。私は戦後の恩賞で頭が一杯であると絶えず知らせて、忠誠を示さなければ、秦王に猜疑心を抱かれるではないか」と答えた。

国境付近に到着すると、堅固な砦を築いて楚軍を待ち受けた。楚軍もここへ到着し砦を攻め始めたが、その堅牢さに手を焼いた。一方の秦軍も防御に徹して砦から出なかったため、膠着状態となった。楚軍は、攻めても挑発しても秦軍の出てくる気配が全くなく、砦も堅牢なため、これでは戦にならないと引き上げ始めた。しかし、これこそ王翦の待っていた機会であった。追撃戦で楚軍を破るために、砦に篭る間も兵達に食料と休息を十分に与え、英気を養っていたのである。英気が余って遊びに興じる兵達を見て、王翦は「我が兵は、ようやく使えるようになったぞ」と喜んだという。王翦が指揮を執る秦軍は、戦闘態勢になかった楚軍の背後から襲い掛かり、散々に打ち破った。王翦は更に楚へ侵攻し、翌年にこれを滅ぼした。

王翦は政の猜疑心の強さと冷酷さを良く理解していた。引退を申し出たのも、政は役に立つ人間には丁重だが、役に立たないと判断した人間には冷淡で、特に権勢があるものはどれだけ功績があろうとも些細な疑いで処刑・一族皆殺しにしかねなかったためである(樊於期という実例もある)。自分の意見が採用されなかったことで、政が「王翦は老いて衰え、弱気になった」と思っていると察し、素早く将軍の座から退いた。実際に引退を申し出た際、政は「許す」と言っただけで全く引き止めなかった。このため、政本人から将軍に請われ、ほぼ全軍を与えられてもいい気にならず、猜疑を打ち消す心配りを絶やさなかったのである。

王翦は、楚の平定後も政に疑いを持たれることなく、天寿を全うすることが出来たと言われる。

司馬遷は、王翦の功績は卓越しており、始皇帝は彼を師と仰いだが、その傍らで輔佐して徳政を打ち立て、国家の基盤を固めることはできず、白起と比較して「尺に短所があり、寸に長所がある」と評している[6]

王翦と『鋒劍春秋』

清代神怪小説『鋒劍春秋』(別名『後列国志』『万仙斗法興秦伝』)における核心的な敵役。史実の秦将・王翦を基にした神魔化キャラクターであり、小説中では截教陣営の修士として「秦による六国統一」の天命を執行する。師は截教の新しい教主・海潮老祖(かいちょうそうそ)。[7]

神魔化設定

清代神怪小説『鋒劍春秋』(1804年刊)の核心的敵役。史実の秦将を基に、九天応元雷声普化天尊(雷祖)の分霊転生体であり、截教の新しい教主・海潮老祖の弟子という二重の神魔設定を持つ。妻は同門の毒仙廉秀英(れんしゅうえい)。秦国大元帥として孫臏率いる六国仙術勢力と対決し、最終的に廉秀英戦死を契機に元神自爆で形神滅却する。[8]

雷祖分霊

雷部最高神の分霊転生という設定により、九天普化神雷(五色雷光で仙体・元神を同時攻撃)や紫霄神雷(天罰級雷劫)を行使。第28回で本源覚醒時には「雷声普化天尊」の虚影が出現し、第60回の自爆では雷部星宿が墜落する天地異変を引き起こした。[9]

截教修士

海潮老祖より授かった偽・誅仙四剣や五雷誅仙陣を駆使。師より「秦による統一は天命」と教え込まれるが、その手段は無差別殺戮を伴い「天道執行の矛盾」を体現する。[10]

廉秀英との関係

三百年の共修歴を持つ霊的伴侶。第34回で海潮老祖が「賢伉俪」と明言。

廉秀英(れん しゅうえい)は、清代小説『鋒剣春秋』(別名『後列国志』)に登場する伝説的女性武将。戦国末期の趙国武将・廉杰の娘であり、秦の名将・王翦の妻となる。驪山老母に師事し仙術と刀法を修得したとされ、小説第24回において師命により金光陣を破るため父を斬る悲劇的エピソードで知られる。史実的根拠はなく、『薛家将』『楊家将』の女将軍モチーフを戦国時代に転用した創作キャラクターとされる。[11]

戦術統合

廉秀英の幻毒術と王翦の雷法が融合した合体技「幻雷劫界」(幻覚空間内での連続雷撃)。

「羅刹雷毒」(仙体溶解毒+元神灼焼雷の複合攻撃)で孫臏軍を壊滅寸前に追い込む。

悲劇的結末

第57回で廉秀英が袁達に討たれ「来世再会」の遺言を残す。これが王翦の狂乱自爆を誘発し、夫婦そろって消滅する[12]

能力体系

雷祖本源術

九天普化神雷:五色雷光による広域攻撃(第28回)。

雷劫召喚:紫霄神雷降臨(自傷リスク有/第37回)。

雷遁瞬移:光速移動・物質透過(第19回)。

截教仙術

法宝操作:偽・誅仙四剣、師匠・海潮聖人より授かる。仙術防御陣を貫通する「破法」属性を持つ。剣光一閃で神仙級の敵の肉体・元神を同時損傷(例:孫臏の護身陣を破壊)。

鑽天箭(さんてんせん)、専用仙弓「震天弓」と併用、追尾型射撃法宝、射出後、敵の五行遁術(土遁・水遁等)を自動追尾。

護体金光(ごたいこんこう)、常時発動型防御仙術。体内仙気が自動的に金光を生成。通常法宝攻撃(風火輪・飛剣等)を無効化[13]

大陣展開:雷祖神力と融合した「五雷誅仙陣」(第53回)。

召喚術:雷甲をまとった天兵、妖獣軍団の使役。

文学的革新性

夫婦敵役の初登場

感情的深みを持つ悪役像で、単独悪役の定型を打破。

歴史改変の論理構築

王翦滅亡後も秦が統一を達成する理由を「仙凡隔離ルール」(第59回)で説明。神魔退場後は李斯率いる法家勢力が歴史を推進するとの独自解釈を示す[14]

特記事項

海潮老祖の謀略:王翦の雷祖転生を認知し「天命執行」の道具として利用。

五雷誅仙陣の真実:廉秀英の毒術で強化された陣は、雷祖神力により天道規則を一時歪めた。

雷部星隕の描写:自爆時の天変地異は、分霊消滅が天界秩序に与えた打撃を示す象徴的表現。

雷祖分霊・截教順天化・夫婦敵役の三大設定は『封神演義』体系とは完全に独立した『鋒劍春秋』独自の創作。これらは清代神魔小説の大衆化・世俗化傾向を反映している。[15]

子孫

死後、子の王賁が跡を継いだ。王賁の子に王離がいる。

新唐書』宰相世系表二中によると、王離は秦の武城侯となり、彼には王元・王威という息子がいたという。息子たちは秦の戦乱を避けて山東に移住し、その末裔からは、後世に王吉王駿王崇三国魏の王雄、王祥王導王敦王羲之らを輩出した。いわゆる魏晋南北朝時代に名を馳せた琅邪王氏である。つまり、琅邪王氏は、王離の末裔とされるのである。ただし、『漢書』王吉伝では王離と王吉の関係について触れておらず、『新唐書』の系図の信憑性には疑問がある。

参考文献

  • 司馬遷史記
  • 原典:『鋒劍春秋』嘉慶9年(1804)刊本
  • 李丰楙『中国神魔小説研究』(1997)/劉倩『鋒劍春秋の神魔改変』(2020)

登場作品

漫画

当初は蒙驁の副将にして、王翦軍を率いている。その後、新たな秦国六大将軍の一人となる。

脚注

  1. ^ a b 卷二十一 趙策四
  2. ^ a b 趙世家第十三
  3. ^ 六國年表第三
  4. ^ a b c d 秦始皇本紀第六
  5. ^ 『史記』白起・王翦列伝では、李信が遼東に逃げ出した太子丹を捕虜にしたと記されている
  6. ^  司馬遷史記・白起王翦列傳第十三』。ウィキソースより閲覧。 
  7. ^ 北梦一 (2024年2月3日). “通天教主之后,截教和阐教再有五次对战,截教依然都是惨败_手机网易网” (英語). www.163.com. 2025年6月23日閲覧。
  8. ^ 北梦一 (2024年2月3日). “通天教主之后,截教和阐教再有五次对战,截教依然都是惨败_手机网易网” (英語). www.163.com. 2025年6月23日閲覧。
  9. ^ 《锋剑春秋》 - 中国古典小说库 - 墨星写作网”. www.mx-xz.com. 2025年6月23日閲覧。
  10. ^ 《锋剑春秋》 - 中国古典小说库 - 墨星写作网”. www.mx-xz.com. 2025年6月23日閲覧。
  11. ^ 《锋剑春秋》 - 中国古典小说库 - 墨星写作网”. www.mx-xz.com. 2025年6月23日閲覧。
  12. ^ 《锋剑春秋》 - 中国古典小说库 - 墨星写作网”. www.mx-xz.com. 2025年6月23日閲覧。
  13. ^ 《锋剑春秋》 - 中国古典小说库 - 墨星写作网”. www.mx-xz.com. 2025年6月24日閲覧。
  14. ^ 《锋剑春秋》 - 中国古典小说库 - 墨星写作网”. www.mx-xz.com. 2025年6月23日閲覧。
  15. ^ 北梦一 (2024年2月3日). “通天教主之后,截教和阐教再有五次对战,截教依然都是惨败_手机网易网” (英語). www.163.com. 2025年6月23日閲覧。

王翦(おうせん)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 09:27 UTC 版)

墨攻」の記事における「王翦(おうせん)」の解説

秦の将軍。墨者には及ばないが、間者邯鄲差し向けて反乱扇動させる内部工作状況把握長けるなど、切れ者軍人である。一方で助平爺の一面持っており、娘の姉を慰み者にした上で処刑したことで、娘の怒りを買い、終盤で仇を取られる

※この「王翦(おうせん)」の解説は、「墨攻」の解説の一部です。
「王翦(おうせん)」を含む「墨攻」の記事については、「墨攻」の概要を参照ください。

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