鄴攻略
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同月、慕容儁は慕容評と中尉侯龕に精鋭騎兵1万を与え、冉魏の本拠地である鄴を包囲させた。冉魏の大将軍蒋幹・皇太子冉智は籠城して徹底抗戦の構えを見せたが、城外の将兵は尽く慕容評らに降伏し、配下の劉寧とその弟の劉崇は騎兵3千を率いて晋陽へ逃亡した。5月、兵糧攻めにより鄴城内では食糧が欠乏し、人肉を食べるところまで追い詰められた。慕容儁はさらに広威将軍慕容軍・殿中将軍慕輿根・右司馬皇甫真らに歩騎2万の兵を与え、慕容評に加勢させた。窮した蒋幹は東晋へ使者を派遣して帰順の意志を示し、伝国璽と引き換えとして援軍を要請した。6月、東晋の将軍戴施は壮士100人余りを率いて鄴へ突入し、三台(鄴城にある氷井台・銅雀台・金虎台の3つの宮殿を指す)を守備した。 その後、蒋幹は精鋭5千と東晋の兵を率いて城から出撃したが、慕容評らは騎兵1万でこれを撃破し、4千余りの首級を挙げた。蒋幹はかろうじて単騎で鄴城へ逃げ戻った。 同月、鄴の北にある郡県は尽く前燕に降伏した。 7月、慕容儁は薊を発して中山に移った。 王午は冉閔の敗北を知ると、既に鄧恒が没していた事もあり、安国王を称して自立した。8月、慕容儁は慕容恪・封奕・陽騖に兵を与え、王午討伐に向かわせた。慕容恪らが王午軍を撃ち破ると、王午は籠城を図ると共に冉閔の子である冉操を前燕へ送還し、許しを請うた。これを受け、前燕軍は城外の食糧を略奪してから軍を撤退させた。 同月、冉魏の長水校尉馬願らは城門を開いて前燕軍を招き入れると、戴施と蒋幹は城壁を越えて逃走を図り、倉垣へ奔った。慕容評は董皇后・皇太子冉智・太尉申鍾・司空條枚らを捕らえ、乗輿・服御・六璽(伝国璽とは異なる)と共に慕容儁のいる薊へ送った。伝国璽は既に東晋に渡ってしまっていたが、慕容儁は事業の神格化を図るため、董皇后より伝国璽を献上されたと嘘の喧伝を行い、天運が己に在ることを示した。そして、董皇后を贈璽君に封じ、冉智を海賓候に封じ、申鍾を大将軍右長史に任じた。また、慕容評を司州刺史(後趙では首都の鄴とその周辺数郡に司州を設置していた)に任じ、鄴の鎮守を命じた。 10月、慕容儁は薊に帰還した。この時期、兵を擁して州郡に拠っていた後趙の旧将が続々と前燕へ帰順の使者を派遣し、自らの子を人質として慕容儁に仕えさせた。慕容儁は王擢を益州刺史に、夔逸を秦州刺史に、張平を并州刺史に、李歴を兗州刺史に、高昌を安西将軍に、劉寧を車騎将軍に任じた。 慕容恪らは安平に陣を布き、兵糧を蓄えて魯口攻略の準備を整えていたが、中山出身の蘇林が無極にて挙兵し、天子と自称した。慕容恪は蘇林討伐の為に軍を反転させ、慕容儁は慕輿根を援軍として派遣した。慕容恪らは共に蘇林軍を攻撃し、蘇林を討ち取って乱を鎮めた。 同じ時期、王午は配下の将軍秦興に殺され、その秦興もまた呂護に殺された。呂護は王午同様に安国王を自称し、魯口を自ら統治した。
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鄴攻略
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紀元前236年、鄴を落とすため王翦を総大将、桓齮と楊端和を副将として遠征軍を派遣。9城を取る。王翦は一人で閼与などを攻める。それから、皆兵をあわせて一軍とした。王翦が将軍になると18日間で軍中の斗食以下の功労のない者を帰らせ、軍をおよそ5分の1に減らし精鋭揃いに編成した。そして、それまで落とせなかった鄴などを落とした。
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