鄴に帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:32 UTC 版)
司馬冏は司馬倫討伐を企画した事を誇り、次第に権力を自分一人の下に集約するようになった。司馬穎は異母兄の長沙王司馬乂と共に先帝の陵墓へ拝したが、この時司馬乂は「この天下は先帝が基業を創始したものだ。汝はしっかりとこれを守らねばならぬ」と忠告した。また側近の盧志は、母の病を口実として本拠地の鄴へと戻り、司馬冏に全ての権力を譲り渡して人心を得る事に努めるべきと進言したため、司馬穎はこれに従い鄴へと戻った。すると奢侈に溺れて悪政を敷く司馬冏に代わって 人々の衆望は司馬穎に集まる事となった。 鄴への帰還後、朝廷からは先の司馬倫討伐の功績により、大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事の官位と九錫の授受、また『剣履上殿(剣と靴を着けたまま上殿してもよい)』・『入朝不趨(入朝時に小走りでなくともよい)』の特権の付与の詔が送られたが、司馬穎は大将軍の官位のみを受けて九錫などの特権は固辞した。また側近であった盧志・和演・董洪・王彦・趙驤らの功績を上書して公侯に封じるよう要請すると、認められて5人はみな開国公侯に封じられた。 また現地の統治に際しては盧志を信任してその進言を容れ、戦乱により困窮した民衆への食物の配給を求めたほか、先の司馬倫討伐の内戦での戦死者の埋葬を敵味方問わず行った。こうした現地政策の結果、朝廷の政権を担っていた司馬冏が奢侈に溺れて悪政を敷くようになるにつれて、民衆の支持は司馬穎の下へと集まるようになった。またこの間、司馬冏は中書令の陸機(三国呉の陸遜の孫で、陸抗の子)を司馬倫の帝位簒奪への加担を理由に処刑しようとしたが、司馬穎はその名望を惜しんで弟の呉王司馬晏と連名で助命を嘆願し、後に自らの参加に招き入れている。 恵帝はその後再度詔を発し、司馬穎に入朝して九錫を受けるよう命じたが、司馬穎の寵臣である宦官の孟玖は洛陽に行くことに反対し、母の程夫人もまた鄴での生活を好んだので、司馬穎は固辞した。後に太子太保を加えられた。
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