棘城の戦いとは? わかりやすく解説

棘城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)

石虎」の記事における「棘城の戦い」の解説

5月石虎慕容皝後趙軍と合流せずに単独段遼攻め、かつその利益独占した事に不満を抱き討伐目論んだ仏図澄進み出て「燕は福徳の国であり、兵を加えるべきではありません」と諫めた。これに石虎顔色変えて「この城を攻めずして、どこの城なら勝てるというのか。この兵と戦わずして、誰がこれを防げようか。区々な小豎如きからどうして逃げようか!」と声を荒げた太史令趙攬もまた「歳星が燕の分野守っております出兵しても功はなく、必ずや禍を受けるでしょう」と諫めたが、石虎はこの発言怒って趙攬鞭打って肥如長に降格した石虎数十の兵を率いて出征すると、前燕の人はみな震え上がったまた、石虎四方使者派遣して寝返り持ち掛けると、前燕の成周内史崔燾・居就県令游泓武原県令常覇東夷校尉封抽護軍宋晃らはみなこれに呼応し凡そ36城が帰順したまた、冀陽郡にいた流民太守宋燭を殺害して石虎降った営丘内史鮮于屈もまた使者派遣して石虎降ったが、武寧県令孫興は官吏民衆説得して共に鮮于屈を捕らえ、これを処刑し籠城した。朝鮮県令孫泳もまた衆を率いて後趙拒み豪族王清らは密謀して後趙呼応しようとしたが、孫泳先んじてこれを処断した。楽浪では領民がみな後趙寝返ったので、太守鞠彭郷里壮士200余り連れて城へ戻った後趙軍は城に到達すると、四方から一斉に攻撃仕掛けた。だが、前燕玄菟郡太守劉佩数百騎を率いて後趙軍に突撃して打撃与え、兵を斬獲してから帰還したので軍の士気は挫かれてしまった。さらに前燕将軍慕輿根らは昼夜渡って力戦し、十日余りに渡って決死の防戦続けた。これにより後趙軍は最後まで攻略することができず、石虎遂に退却決断した。これを見た慕容皝は子の慕容恪胡人騎兵二千与え早朝決戦を挑ませた。諸門から一斉に軍を発すると、四面から湧き上がる如く兵が飛び出した石虎はこれに大い驚き諸軍はみな甲を脱ぎ捨て遁走してしまい斬獲された者は3超えた。ただ游撃将軍石閔石虎養孫)だけは一軍全うして撤退したという。ここにおいて石虎過ち悟り趙攬召喚し太史令復帰させた。この後数年間で、滅ぼした段部領土前燕奪われてしまう事となる。 その後石虎令支から軍を撤退させた。易京通過した時、その堅牢さを憎んでこれを毀した。また、石勒の墓にも謁し群臣襄国建徳前殿朝会すると、今回遠征従った文武百官格差をつけて褒賞与えた鄴に帰還すると、飲至の礼(宗廟で酒を飲み交わして戦勝報告をする事)を設け戦利品については丞郎へ下賜した。また、段部配下であった劉群中書令に、盧諶中書侍郎任じた。さらに、氐族蒲洪これまでの功績により使持節都督六夷諸軍事・冠軍大将軍西平郡公とした。石閔は「苻洪才知傑出しており、彼の将兵はみな死力尽くしており、その諸子非凡な才覚有しております。その上強兵5万擁して都城近郊駐屯しております秘密裏にこれを除き国家安定させるべきです」と進言したが、石虎は「我はまさに彼ら父子頼みとして東呉東晋)と巴蜀成漢)を攻め取らんとしているのだ。どうして殺さなければならんのだ!」と述べて聞き入れず逆にますます厚遇するようになった

※この「棘城の戦い」の解説は、「石虎」の解説の一部です。
「棘城の戦い」を含む「石虎」の記事については、「石虎」の概要を参照ください。

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