棘城の戦い
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5月、石虎は慕容皝が後趙軍と合流せずに単独で段遼を攻め、かつその利益を独占した事に不満を抱き、討伐を目論んだ。仏図澄は進み出て「燕は福徳の国であり、兵を加えるべきではありません」と諫めた。これに石虎は顔色を変えて「この城を攻めずして、どこの城なら勝てるというのか。この兵と戦わずして、誰がこれを防げようか。区々な小豎如きからどうして逃げようか!」と声を荒げた。太史令趙攬もまた「歳星が燕の分野を守っております。出兵しても功はなく、必ずや禍を受けるでしょう」と諫めたが、石虎はこの発言に怒って趙攬を鞭打って肥如長に降格した。 石虎が数十万の兵を率いて出征すると、前燕の人はみな震え上がった。また、石虎は四方に使者を派遣して寝返りを持ち掛けると、前燕の成周内史崔燾・居就県令游泓・武原県令常覇・東夷校尉封抽・護軍宋晃らはみなこれに呼応し、凡そ36城が帰順した。また、冀陽郡にいた流民は太守宋燭を殺害して石虎に降った。営丘内史鮮于屈もまた使者を派遣して石虎に降ったが、武寧県令孫興は官吏と民衆を説得して共に鮮于屈を捕らえ、これを処刑して籠城した。朝鮮県令孫泳もまた衆を率いて後趙を拒み、豪族の王清らは密謀して後趙に呼応しようとしたが、孫泳は先んじてこれを処断した。楽浪では領民がみな後趙に寝返ったので、太守鞠彭は郷里の壮士200人余りを連れて棘城へ戻った。 後趙軍は棘城に到達すると、四方から一斉に攻撃を仕掛けた。だが、前燕の玄菟郡太守劉佩は数百騎を率いて後趙軍に突撃して打撃を与え、兵を斬獲してから帰還したので軍の士気は挫かれてしまった。さらに前燕の将軍慕輿根らは昼夜に渡って力戦し、十日余りに渡って決死の防戦を続けた。これにより後趙軍は最後まで攻略することができず、石虎は遂に退却を決断した。これを見た慕容皝は子の慕容恪に胡人の騎兵二千を与え、早朝に決戦を挑ませた。諸門から一斉に軍を発すると、四面から雲が湧き上がるが如く兵が飛び出した。石虎はこれに大いに驚き、諸軍はみな甲を脱ぎ捨て遁走してしまい、斬獲された者は3万を超えた。ただ游撃将軍石閔(石虎の養孫)だけは一軍を全うして撤退したという。ここにおいて石虎は過ちを悟り、趙攬を召喚して太史令に復帰させた。この後の数年間で、滅ぼした段部の領土は前燕に奪われてしまう事となる。 その後、石虎は令支から軍を撤退させた。易京を通過した時、その堅牢さを憎んでこれを毀した。また、石勒の墓にも謁し、群臣と襄国の建徳前殿で朝会すると、今回の遠征に従った文武百官に格差をつけて褒賞を与えた。鄴に帰還すると、飲至の礼(宗廟で酒を飲み交わして戦勝報告をする事)を設け、戦利品については丞郎へ下賜した。また、段部配下であった劉群を中書令に、盧諶を中書侍郎に任じた。さらに、氐族の蒲洪をこれまでの功績により使持節・都督六夷諸軍事・冠軍大将軍・西平郡公とした。石閔は「苻洪は才知傑出しており、彼の将兵はみな死力を尽くしており、その諸子も非凡な才覚を有しております。その上、強兵5万を擁して都城近郊に駐屯しております。秘密裏にこれを除き、国家を安定させるべきです」と進言したが、石虎は「我はまさに彼ら父子を頼みとして東呉(東晋)と巴蜀(成漢)を攻め取らんとしているのだ。どうして殺さなければならんのだ!」と述べて聞き入れず、逆にますます厚遇するようになった。
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